三ヶ本さんの疑問の一つ目、長江下流域の「湿潤」の捉え方ですが、これはいわゆる気候区分で、長江流域は(南朝鮮、西日本もそう)温暖湿潤気候、または温帯モンスーン気候と呼ばれ、夏の高温多湿と降水量の多さが特徴です。
ですから馬が入れないほどの「湿潤」とは意味が異なると思われます。現に、春秋時代には長江中流に楚、下流に呉、その南に越の国が台頭し相争いますが、歩兵と騎兵の軍隊とされています。
4大文明発祥の契機は、6000年前を頂点とするヒプシサーマルの温暖期が終わり乾燥化したことから(4500年前頃まで寒冷化が進みその後若干戻す)、周辺の平原の民(遊牧民)が大河のほとりに進入したこととされています(時期も概ね5000年前頃と共通しています)。6000年前ないしは7000年前から、農耕民が相当程度の都市的集落を形成していますが、5000年前の遊牧民の進入によって急速に灌漑施設などが整備され、都市国家が興ってきます。
長江中流域で6400年前に始まった城頭山遺跡の周りに濠ができ、城壁が登場するのも5000年前頃です。黄河流域でも、6000年前〜4300年前にかけて彩陶文化(仰韶文化)と呼ばれる、原始農耕を営む漢民族(原中国人)の遺跡がありますが、(いつ頃からか時期は分かりませんが)居住区域の周囲に外敵防衛の為の深い溝が掘られています。
これらのことから、草原の乾燥地帯で勃発した遊牧部族の私権闘争が、5000年前ついに世界の大河流域への侵略へと発展したと考えられます。長江流域も例外ではないと思われます。そうなれば玉突き的に私権闘争は加速され、漢民族が参戦することも考えられますし、遊牧部族の中には農耕民化し先住民の支配者になった者も出てきたでしょう。良渚も石家河も(遺跡の開始頃はそうでなくても)、このような私権闘争の圧力を受けて形成されたと考えられます。
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