縄文人の世界観は、「命あるものは再生する」であり、月と蛇を生命力と生命の源である水を司るものとして捉えた。そして、28日ごとに消滅し、再び新月として蘇る月と、脱皮と冬眠を繰り返しながら甦る蛇を再生の象徴と捉えた。同じく女性の子宮は生命の源であり、月から与えられる水は、蛇(男根の象徴でもある)によって子宮に運ばれ、生命を育むとした。
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このような世界観が渡来人との融合の仲でどのように受け継がれ、変容していったかを見てみたい。
○越と海人族
日本に稲作をもたらしたのは「越」の人々であるといわれている。紀元前1世紀にこれらの国が滅亡したことにより、本格的に朝鮮南部や日本へ移動してきた。彼らは海洋民族でもあり、体に「文身」といわれる竜(蛇)の刺青をしていた。また同じ頃やってきた海人族は海蛇を神として信仰していた。海蛇は船の安全を守る神である。これらの海蛇信仰は、縄文人の蛇信仰と結びついた。そして更に大陸の龍信仰が塗り重ねられる形で、水を司る神=龍神信仰として現在も生きている。
また 稲作の発達につれて、その収穫を阻害する野鼠の天敵として蛇はそれまでに引き継いだ縄文の蛇信仰と結びつき、豊穣の象徴としての性格も持つようになった
もちろん、再生の象徴としての蛇の性格は尚引き継がれている。そして同類闘争圧力の上昇と共に蛇は租霊神の色彩を強めていく。
他方もともと海洋民族であり。海の満ち干は月に支配されている事から、月信仰も、再生の象徴としての月の捉え方も、同じく引き継がれている。
○日本古代の祭り
日本の古代の祭りは、概ね二つの類型があるようである。一つは男女の祖霊神としての蛇を何らかの方法で現出させる様式。例えば藁や縄で作られた蛇を祀る等。現在も豊年祭で使われる雄綱、雌綱はその好例である。
もう一つは男祖霊神である蛇と巫女との交合により巫女が神を身ごもり、籠もり(こもり)の儀礼の後、神として現出する様式である。つまり蛇との交合、受胎、出産を儀礼化させたものである。この場合、概ね男根と蛇の象徴として蔓の絡まる御神木や、山を蛇がとぐろを巻いている姿を蛇に見立てているものが多く、こちらの祭りが多数を占めていた。
これらは満月の夜に行われていたとされる。
実際神社の出来る前の古神道に於いては、蛇や山そのものをご神体としているものが多い。
例えば三輪山(大神神社)、出雲の佐上神社(神事で海蛇を奉納する)、諏訪大社(冬眠中の蛇を奉納する)等が上げられる。
また 物部氏は日本における強力な蛇信仰の担い手であったと推測され、物部氏の子の天語山(あめのかごやま)命(のみこと)は別名、高倉下(たかくらじ)と呼ばれた。この高倉とは高床式の倉であって、倉は富の象徴であった。高倉は鼠害から穀類を守る設備なので、そこには鼠の天敵としての蛇、あるいは蛇を象徴する蛇行剣が祀られていた。蛇が祀られている倉は、その意味でも住居の守護神的存在となるが、これらの理由から、穀倉が神社の起源になっていったようである。
他方月信仰であるが、古代における銅鏡は光を受けて輝く月を模したものである。
また古代に於いて「天照」という言葉はほとんどが月の光を表していた。 更にそもそも『アマテラス』とはもともと月の神を指していた。
○月信仰から太陽信仰へ、蛇信仰の変容
このように、古代国家の形成過程においても、蛇信仰、月信仰は渡来人の信仰と融合しつつも根強く残っている。それが支配階級によって変容するのは持統天皇から「記紀」の時代であるようだ。持統天皇は、原始的な固有信仰である蛇神信仰を利用して、神権的な天皇制を強化しながら、しかも中国風の絶対的な古代専制王権にきりかえていった人でもあり、仏教も尊信していた。それゆえ記紀編纂・天照大神・伊勢神宮の成立後は、原始信仰を古臭いものとして遠ざけており、また持統天皇の死後には、それにかかわった人々も切り捨てられていったのである。
アマテラスが月の神から太陽神へとすり替えられたのはそのためである。
その過程で例えば古事記では「ヤマタノオロチ」の尾から出現した剣を正真正銘の蛇の精として三種の神器に加える一方で、大蛇を「邪なる」存在として征伐の対象とし、次第に畏怖すべき存在から征伐すべき対象へとすり替えていく。
このようにして政治的な思惑で神話はすり替えられていった。
しかし、竜神信仰や蛇信仰等は民間信仰においては尚根強く残り続けた。
また月信仰は例えば後々の時代である「かぐや姫」の物語に象徴されるように、その後も生き続けた。
何よりも、月の運行に基づく太陰暦は、90%が水で構成されている生物の営みを司どる農事の暦として一貫して人々の生活に用いられてきた(中国は一時期太陽暦を採用し、その後は太陰太陽暦を採用するなど紆余曲折をしている)。神話は覆せても大衆生活に密着した事実認識=自然の摂理の認識は覆せなかったのである。 |
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