平安時代、天皇家は国内の体制化に成功すると、遣唐使・遣隋使を主体的に廃止し、新文化=天皇支配体制に対抗する勢力の台頭を防止した。他方で、血統を重視し、相続のルールを確立させ、院政を確立することで、姻戚関係を使って天皇家以上の権力を握ろうとする勢力も排除することに成功する。
しかし、そのような支配体制の確立によって、貴族階級の宮廷サロン需要、性愛空間を彩る豪奢は増大の一途を辿り、それを支えるための、搾取にも拍車がかかる。
受領国司の横暴は、農村を疲弊させ、多くの難民を生む。そうした難民の受け入れ先となったのが寺社勢力である。寺社内で商工業活動を営む人たちを行人、神人と呼ぶが、行人、神人の出自は、農村から都市に流入してきた難民たちであり、彼らが寺社の庇護の下、貴族階級の消費需要に応える多様な経済活動を行っていくことで、寺社勢力は台頭していったのである。
現代の感覚では、寺社の経済活動は葬式etcに限定して考えてしまうが、寺社の活動は最初からもっと生臭いものであった。商工業を発達させていった門前町は、寺社が所有していた境内の一部であった。寺社の境内であるから税金がかからないことをいいことに、境内の中で商工業を営み、貴族階級の富を回収し、成長していったのが寺社勢力なのである。
中でも、平安京の都市需要を背景にした商工業都市として成長していったのが、京都を見下ろす比叡山に拠点を構えた延暦寺であった。延暦寺は遣唐使廃止後の海外貿易の窓口となった太宰帥(だざいのそち)や越前の敦賀経由での貿易ルートなどを活用して、様々な物品・技術・文化を輸入し、流通させていた。死の商人として武器輸出にも関わっていたし、為替の変動を予測して、今で言うFX取引のはしりのようなことまでしている。(詳細は「寺社勢力の中世」119頁参照)
また延暦寺は、貿易や商工業活動を通じて手にした資金を元手に、平安の初期から、土倉という金融業をも営み、貴族相手に高利貸で利益を挙げていた。寺社勢力以外の俗人による金融もあったが、貴族が権力にものをいわせて踏み倒されるリスクが高かった。他方、神仏から借りたものは返さないとバチがあたるという恐怖心から、寺社勢力は遅滞ない取立てが可能だった。
さらには、貴族階級のケガレに対する恐怖意識を増幅させて、神人が平安京内で殺人事件にあうと、その場所を神人の怨霊を鎮めるための墓地にかってにしてしまい、土地を自分たちのものにしてしまったりもした。
このように、貴族階級の豪奢と横暴は、農村発の都市難民を生み出し、その受け皿となる寺社勢力を台頭させた。もともと、貴族階級の宮廷サロン需要に応える文化と高級品の海外窓口=貿易商でもあった寺社勢力は、都市難民を受け入れ、古代市場から中世市場へと市場拡大の橋渡し役を担ったのだ。
参考:寺社勢力の中世 伊藤正敏 |
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