江戸時代の事例として長屋の人情とかがよく言われる。
「大家と言えば親も同様、店子と言えば子も同様」「講」などたくさんある(204135)が、こんな事例もある。
>「おい、カカアをちょと貸せ。減るもんじゃあるまい」そこで現代では考えられないことだが、「あいよ」ということになる。減るものじゃないから、「女日照り」の裏だなでは、女性は公的存在もしくは共有物みたいな側面があった。
>出産時の赤ん坊は、胞衣(えな)に父親の家紋が入っていると江戸っ子は信じていた。そこで胞衣の家紋を探すのだが、これは胎児を包んでいた膜と胎盤だから血まみれである。どの角度から見ても家紋などグシャグシャで見えるわけはない。まるで家紋がたくさん散らされているようで、父親の鑑定は不可能となる。そうなると子どもは「紋散らし」と呼ばれて、身に覚えのある男たちが協働して養育することになる。(「江戸の歴史は大正時代に捻じ曲げられた」古川愛哲著 講談社新書より)
死産の多い時代でもあり、生まれてくれた「長屋の子」は長屋の活力源になったことだろうと思う。「性」の私有意識がなければ私有意識は生じない。私有ではなく共有が当たり前の世界。
そしてこれらの事例を見てくると、ほぼ「共同体」そのものであることに気付く。
>江戸時代の土地は現在的な意味での私有はなく、共有に近かった。
>村落共同体を組み込んだ支配体制という、支配層と下層の共同体体制の二重構造になっている。
>この二つのバランスの中で、市場経済は高度になりながらも、現在の様な自分の消費行動が誰の制限も受けないという、異常な社会になることを抑制できていたのではないか(208718)
大きく支配者層と村落共同体との二重構造にあることに加え、さらには都市部と農村部という市場内市場外の二重構造が複層している。
都市部の中でも武家屋敷地と町人地とは全く位相が異なる。町人地は江戸全体のたった20%にすぎないが、長屋あるいは町という擬似共同体が形成される。
5人組など、幕府の支配形態は町人を監視体制においたなどと言われるが、実態はその沙汰をうまく利用し、もともとの住民たちと、流入してきた者たちが融合して形成し適応したのが都市部における擬似共同体なのではないか。都市部においても最基底に共同体があったのだ。 |
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