つまり土地に根ざした半農半士の代表がやがて武士階級でも力を持ってくるわけで、武士の力の基盤は村落共同体の存在を前提にしている。これが幕府との間でも本領安堵や一所懸命などシステム化されていくのだ(つまりその土地に根ざしているから、「いざ鎌倉」なのであり、彼らは独立した集団の集まりなのだ)。
管理人と村人の関係性も、室町から戦国期時代の村請制など共同体の自治がますます強固になってきている(現存する文書が出てくるからかもしれず、実は構造はそれまでとあまり変わらなかった可能性は高い)。そこでは村との契約関係や管理運営の自治が明確にされてくる。
例えば「人は城、人は石垣、人は堀」の武田家などは豪族集団の集まりであり、甲斐には城もなく(館しかなく)、家来のほとんどは半農半士である。だから彼らは農繁期には戦ができないという限界も持っていたが、「戦国最強」と呼ばれたことも事実で、共同体の結束性の高さが伺える(これは上杉など多くの大名も同様で、だからこそ川中島合戦など農繁期には和睦し繰り返すことになる。織田信長の強さは傭兵集団をつくったことでどの季節でも闘えることだったが、共同体的資質は弱く、兵の弱さも有名だった。)。
「近世の土地制度と在地社会」牧原成征著によれば太閤検地と石高制についてこう記述している。
>中世後期には、荘園内部で、村が実質的な共同体として成熟しつつあった。また百姓や村による年貢請負制もとられるようになっていた。兵農分離を進めた豊臣政権は、そうした歴史的条件のなかで共同体=村を支配の単位とせざるを得なかった。ただ、共同体は完結して存在したわけではなく、共同体的諸関係が重層したり入り組んだりしていたし、村境が確定していたわけではないので、太閤検地では一定の領域を時には便宜的に区切って村の範囲を定めて竿入れした<30ページ
「せざるを得なかった」のではなく「そのほうがうまくいくから」そうしたのではないか。
また、「重層的」で「入り組ん」だ「共同体的諸関係」からは私有、所有の概念は類推できない。村単位というのすら実は便宜的なもので、共有、共存関係が主であったと見た方がよいと思われる。
石高制はこうした複雑で、地域ごとにことなる共同体体制を当時できるかぎり統一しようとした点で画期的だが、その大前提は天下統一という統合課題のもと、日本ではやはり「共同体」という基盤を前提にするのが一番うまくいく方法だったということだと思う。
これを踏襲して発展させたのが江戸時代であり、260年近くも戦争もなく統合できた本質はこの「共同体維持」にある。
引き続き、秀吉の石高制導入と、徳川の石高制を追及していく。 |
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