【強力な軍事力を備えた4世紀の伽耶諸国】
広開土王の顕彰碑によれば、399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通したため、広開土王は百済を討つため平譲まで進軍してきた。ちょうどそのとき新羅から使者が来て、「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としてしまった。どうか高句麗王の救援をお願いしたい」と申し出た。そこで、広開土王は新羅救援軍として5万の大軍を新羅へ派遣したという。4世紀末の400年のことである。
その頃、倭軍は男居城から王都の新羅城まで城内に満ち満ちていた。高句麗軍は倭軍を追い払い、退却する倭軍を追って任那加羅(金海)の従抜城まで来ると、城は帰服したという。しかし、安羅(咸安)の軍などが逆をついて、新羅の王都を占領したとされている。 顕彰碑の碑文の性格を考えれば、国境に満ちていたとする倭軍の規模や派遣された5万の高句麗軍の記事などは、割り引いて考えなければならないが、一定の史実を背景とした記述であろうとされている。
この頃の加耶諸国は、侵入してきた高句麗軍を反撃するほどの強力な軍事力と緊密な協力関係があったことが分かる。
【5世紀の伽耶諸国の衰退】
だが、5世紀の前葉になると、金官加耶の丘陵の稜線に築かれてきた王墓が急に中断され、その後はこれらの王墓が破壊されその上に小型墳が造られるという現象が生じている。
これは加耶地域の中で金官伽耶があった金海地域だけに見られる特別な現象である。他の加耶地域では5世紀中葉から、支配者の墓として竪穴式石室をもつ壮大な円墳が築かれるようになるのとは、極めて対象的である。このことがどのような歴史的事実をはらんでいるのかは、非常に興味深い。
高句麗の攻勢と勝利、倭と結んだ金官加耶の敗北、大成洞古墳群の5世紀前葉からの衰退とは、何らかの関係があると思われる。
高句麗の武力を伴う脅威は新羅を越えて加耶に及んだ。こうした高句麗や新羅の外圧に対して、3つの可能性が指摘されている。
金海加耶の支配者集団が解体し、他の政治集団に吸収された、加耶の北の方の大加耶あるいは伴跛(はひ)へ移住した、または倭へ移住した、の3つである。
【伽耶の中心勢力の交代と日本(倭)との関係】
加耶諸国の発展段階は4世紀から5世紀前半段階と、5世紀後半から滅亡する562年に至る6世紀前半の段階に大きく分けることができる。
洛東江の流域に割拠する加耶の諸国が成立するのは、5世紀の前半を中心とする時期だろうと想定されている。5世紀後半になると新羅勢力が西の方へ進んでくる。その影響で倭国と最も緊密な関係にあった金官加耶などが衰退し、代わって北の大加耶(伴跛国・はへ・慶尚北道高霊)が有力となる。
470年代には、この大加耶を盟主に、加耶北部から西部にかけての諸国が連盟を結成する。この大加耶連盟は、はやくから倭国と友好関係にあった金官・安羅・卓淳などの加耶南部諸国とは一線を画し、別個の政治勢力を構成していた。479年に大加耶国王の荷知(かち)が南朝の斉に初めて朝貢し、柵封されている。
加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。五世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加耶との交流が始まった。須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。
しかし、五世紀後半になると、おおむね高霊を中心とした大加耶圏に求められるようになると言う。
この時期、加耶諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは、ヤマト朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。
以上リンクさんより抜粋させていただきました。 |
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