【3世紀中から始まる強国「金官伽耶」の歴史〜墓制の変化から支配社会】
狗邪韓国が金官伽耶になった時期、すなわち三韓時代から三国時代への画期が、3世紀中葉から末頃だったことが考古学的に明らかになった。
この画期を如実に示しているのが、金海地方の墓制の変化であり、墓から出土する陶質土器と特定鉄器である。
弁韓すなわち狗邪韓国の時代に行われていた木棺墓(もっかんぼ)が、金官伽耶の時代になると木槨墓(もっかくぼ)に変わってくる。木棺墓時代は、支配者の墓も一般大衆の墓も、大きさはほぼ同じで、いずれの墓も墓域が区別されておらず、平地に互いに混在していた。せいぜい支配者と被支配者の副葬品に質の格差が認められた程度である。
木槨墓の段階になると、墓域は平地から丘陵に移り、支配者層の墓は最も立地条件のよい丘陵の稜線部に築造されるようになる。これに対し、被支配者層の墓は丘陵の斜面にバラバラに築かれていて、墓域が明確に分離されるようになった。さらに、支配者層の墓は被支配者層のそれとは比べものにならないほど大型化し、副葬品埋納の専用施設を持つ墓まで登場してくる。
【金官伽耶での鉄は3世紀中葉以降大量に生産される】
一方、木槨墓からは騎乗用の甲冑、馬具類、各種の鉄製武器類が大量に普遍的に埋葬されるようになった。また、木槨墓からは殉葬の風習も確認されていて、この時代には比較的大規模な征服戦争が行われたことを想像させる。金海大成洞遺跡は狗邪韓国の都だったところで、共同墓地に隣接して環濠集落があった。だが、木槨墓が登場してくると、丘陵全体が共同墓地となり、環濠集落は大成洞遺跡から600〜700mほど離れた鳳凰台と呼ばれるかなり高い丘陵に移っている。すなわち、集落と共同墓地が区分され、環濠集落が高地性集落に変わっていった。
加耶文化を特徴づける出土遺物は陶質土器と鉄てい(金+廷)と呼ばれる延べ板をはじめとする特定鉄器などである。これらの遺物は金海地方の遺跡から大量に発掘されていて、その研究により金官加耶の始まりは3世紀末頃とされている。
鉄は、当時の生活、あるいは国家成立の上で、鉄は非常に重要な要素を占めていた。鉄器文化は、加耶を代表する文化であり、その最も代表的なものが、鉄素材である鉄ていである。上で述べたように加耶地域での鉄生産の始まりは紀元前1世紀とされていて、鉄ていの先行形態である板状鉄斧が、木棺墓からも見つかっている。
3世紀中葉以降の木槨墓では、大型の板状鉄斧や鉄ていが大量に埋納されるようになり、4世紀中葉には板状鉄斧から鉄ていに完全に移り変わったとされている。
こうした鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとする加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。たとえば、金海大成洞遺跡からは4世紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。
金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっていたことを伺わせ、政治的・軍事的色彩の濃い政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。
【日本に渡った伽耶の鉄】
弥生時代の中期から後期にかけての鉄剣や鉄矛はほとんど朝鮮半島からの舶載品だろうと見なしている。弥生時代の後期、すなわち紀元1世紀以降になると鉄器を作る鍛造の技術が発達して、農具や工具を作り出せるようになる。しかし、鉄を精錬する技術はまだ未発達で、鉄または鉄素材は弁韓地方と倭との交易によって入手していたとされている。 |
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