古代日本の社会構造を押さえていく上で、現在も形があり、古代史の痕跡を残している『神社』を一つの切り口として、『古代日本の社会構造』を読み解いていこうと考えます。
まずは大前提をまとめてみると、
★日本古代史の本質は、渡来人同士の勢力争い!?
→大枠は、百済系と、新羅系(+任那系)との争いと捉えることができる。
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・百済(南朝鮮の西側)→北九州→ヒミコ?→天智天皇・藤原氏・現天皇系
・新羅(南朝鮮の東側)→出雲→スサノオ→継体天皇・天武天皇・蘇我氏?
・任那(南朝鮮の中央)→↑ ・物部氏?・秦氏?
・高句麗(朝鮮半島の上部)は?→騎馬民族???
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※日本に渡来した順番は、新羅系が先発で、百済系が後発。
※もちろん詳細を押さえれば、百済系や新羅系の中にも系統が多々あるだろうが、大枠は外していないと想われる。
★日本の古代史を捉える上で拠り所となる史書(記・紀)
(186131)にもあるように、日本書記は、新羅系の天武天皇が作らせたものだが、完成したのは天武天皇の死後30年以上たってから。
→日本書紀は、天武天皇死去後に政権を奪った百済系の藤原氏が都合のいいように改竄した書物といって間違いない。
これらを前提として、『神社』を切り口に、古代日本の社会構造を推測してみる。
●古代神社勢力から百済系・新羅系の関係を推察
8世紀までに建てられた神社の数は3000〜5000社。そのうち、新羅系スサノオ一族関連の神社が7〜8割(ex.出雲大社、宇佐神宮)、百済・天皇系関連の神社が2割(ex.伊勢神宮)、その他少々と言われている。
※根拠は要確認!!
これを一旦事実だとすると、8世紀に体制側であった百済・天皇系は、すべての神社を伊勢神宮を頂点とする百済・天皇系の神社(祭神)に塗り替えていてもおかしくないはず。
しかし、実際は新羅系スサノオ一族関連の神社が多い。
なぜか?
→これは間違いなく、全ての神社を百済・天皇系で塗り重ねることが出来なかった何らかの理由があったと考えられる。
その理由として考えられるのは、百済・天皇系より先に日本に渡来していた新羅系スサノオ一族が、武力ではなく大陸で獲得した(稲作や建築などの)技術を提供するなどの方法で、先住民=縄文人と融合したと考えるとスッキリする。
※融合方法は、道教・密教あたりとも関係が深そう。
つまり、後から日本に渡来してきた百済・天皇系が律令国家体制を創りだすころには、すでに土着民(新羅系と縄文人の混血?)の意識上では、新羅系スサノオ一族関連の神様への信仰が出来上がっていた。
したがって、百済・天皇系はすでに出来上がっている信仰を、ムリヤリ塗り替えて共認支配することができなかったと捉えることはできないだろうか?
考えてみれば、百済・天皇系が改竄した日本書紀において、スサノオを暴れん坊に見立て、悪い印象を抱かせるように描かれているのも、スサノオ一族の偉業を抹殺しようとしている証なのでは?
ここには大きな謎が隠されているように想う。
一方で、百済系と新羅系とが完全対立構造にあったと一概には言えないと考えられる事象が2つほどある。↓
@百済・天皇系は、新羅系スサノオ一族である大物主大神(おおものぬしおおかみ)を祭っている『三輪山』を、伊勢神宮よりも格段上位とみなして畏れ敬っていた点。(三輪山と大物主に関しては、記紀にも特別な存在として記載されている)
A百済系天皇の祭祀を担当してきたのが、新羅系の豪族や氏族だったという点。(あくまで祭祀を所等していた氏族なり豪族が新羅系という前提)
以上から察するに、象徴となる飾り(=天皇)は百済系で、祭祀関連は新羅系など役割分担されていた疑いも濃厚。
または、表の支配者を百済系に見たてて、新羅系は表舞台に出ることはなく、黒幕として百済系を操っていた?
これは、国家を背後から操る中世以降の金貸し構造と似ている・・・。
などなど、謎は深まるばかりです。
このあたりを、今後もう少し追求していってみようかと想っています。 |
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