人々が「豊かさ追求」だった頃、お金は【モノ】そのものであり、評価の対象であったのだと思う。だから人々は、「どれだけ多くのモノが買えるかどうか、持っているかどうか」(=お金をもっているかどうか)を目指していた。そして人々は評価され⇒序列ができていた。
しかし、
>’00年、私権観念(「お金第一」「自分第一」で社会のことなど関係ないという観念)が崩壊し、一気に社会不全が膨らむと、遂に「豊かさ追求」という目標共認も溶解し始める。そして、「物的な豊かさ」という目標が溶け崩れて、初めて『必要か、必要でないか』という真っ当な判断基準が潜在思念の奥から姿を現してきた。(33821四方さん)
こうなると、お金の意義が変ってくる。【モノ】だったお金が、「必要か否か」という【評価】そのものになり、評価の対象ではなくなる。
お金を消費していた時は、消費という行動そのものが評価されていたから、人々はどんどん消費した。しかし、「豊かさ追求」の溶解によって、人々はお金の消費をやめてしまった⇒“物が売れなくなった時代”
人々は今、必要なものにしかお金を支払わなくなってる。お金によって評価しているのだ。
だからこそ
>、『必要か否か』という土俵上では、どれだけ多くの人が必要と認めたかが、つまり『人数』こそが、「お金」を超える最先端の評価指標となる。そこでは、お金は人数を判定する基準(お金を払った人だけを人数として数える)にすぎなくなる。(33995四方さん)
お金が【評価】となるのは、こういうことなのだと思う。 |
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