>■■■「神の見えざる手」
この行動原理の導入によって、経済学は経済主体の行動を数学的に処理することが可能になり、市場における「神の見えざる手」の正当性を証明することができたのです。
「神の見えざる手」とは、個人が(社会的公正を考えなくとも)己の欲望に忠実に経済活動(消費と生産)を追求すれば、市場の中で自ずと供給と需要の均衡が達成され、結果として社会的公正と福利が達成するという仮説です。
経済学、およびここから派生した現代の財政理論、金融理論は、この仮説を軸に、補強と批判を繰り返しながら発展してきました。
我々が経済を語るにおいても、このホモ・エコノミクスのモデルは、無意識に前提とされています。
「なぜ、消費は拡大しないのだろう?」という問いを発する意識の裏側には、新古典派の理論モデルの考え方が明らかに反映されているのです。
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確かに、この「神の見えざる手」における非論理的な考え方(狂った考え方)が経済学のベースにある事自体がおかしい。なぜそのベースを修正(再構築)しないのかが、疑問に残る所です。
少し、この「神の見えざる手」という仮説が成立した背景を考えてみると、当時における社会統合軸はまさに私権であり、市場に可能性を見ていた時代であった事と社会を統合していた支配階級がほぼそのまま社会を統治していた関係があります。
その時代における現実の力学から、「経済活動を追求すれば、社会的公正と福利が達成する」という何の根拠もない仮説が成立した背景があるのだろうと思います。根拠があるとすれば、当時の現実事実(私権獲得者の福利)と市場の可能性という潜在的公正であると言えなくもありませんが、やはりその方針に矛盾が生じた時点で、誤りであることに気付き、誤った仮説は捨てなければならないはずです。
しかし、市場が行き詰まった現在でさえ、経済学において上記の誤った旧観念に縛られて、変な理屈や数学式が旧観念を守るかのようにガードしています(時代が私権時代であればその数学式にも意味はあろうが現在は不要)。
すなはち、社会の統合軸が変わりつつある現在においても市場による統合はありえないし、そもそも国家の寄生虫的意義しかない市場による社会の統合は担えないのは論理的にも明らかです。まして経済−中国の“経世済民”(世を経(おさ)め、民をすくう、の意)の言葉を使うこと自体おかしいものだと思います。
自我経済学から共認経済学へ (78729)
まさに、この認識がこれからの市場(社会の一部としての)を論ずる上での必要なものであると思ったと同時に、既存の経済学が日本の現状においてはもはや役に立たない事を伝える必要性を感じます。 |
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