>原始人も現代人も、現実に立脚して生きており、その意味では、現実を受け容れ、肯定して生きている。それは、当然すぎるくらい当然の事であって、現実を否定するなどというのは天に唾するようなもので、現実には有り得ない不可能なことなのである。(20354)
「周りが悪い」「今の若者は・・・」と言った様に、否定から入る思考をする人がいる。正直、この手の人と話すのは、とても疲れる。。
否定ばかりで、その先の答えが曖昧だ。否定しておきながら、結局は個人の自由だから、、人それぞれだから。。。と言った具合に、問題を捨象する。『人それぞれ』って言葉は、とても便利な言葉だと思う。『それぞれ』と言ってしまったら、その先の思考⇒どうやってその問題を突破し、解決していくか?という所へ至る事はない。そこには、「個々の問題である限り、他人は口出しすべきでない」という、旧観念における個人主義の思想が根底にあるから。そもそも、『否定』するからには、何らかの違和感があり、その違和感に対し、『不全』を感じているからこそ、『否定』という形で、表へ出ているのではないだろうか?
>つまり、彼らが否定する現実とは、彼ら自身の私婚・私権の共認や、力の追共認に基づいて作られた現実である。従って、現実を否定する以上、自分自身の存在(自我や私権や力を求める下部意識)の否定に向かわざるを得ない。(20054)
>実際、彼らは頭の中だけで自らの存在(下半身)を否定して、感応観念に収束した。観念の倒錯である。しかし、現実の存在(自らの下半身)を頭の中で否定することはできても、現実に否定することは出来ない。そうである以上、頭の中だけで現実=自らの存在を否定するのは自己欺瞞であり、その自己欺瞞の故に意識と存在(思想と現実)は必然的に断絶し、分裂することになる(同上)
いままで、『常識』とされてきた事(個人の尊重、自由、平等etc)をどう使っても何一つ解決できなかったと言う事実を捨象し、頭の中だけのこじつけの理論に収束する。本当に現実を直視し、問題を突破するには、人類の原基構造にまで遡った事実の追求にもとづき、「なんで?」を掘り下げる事しか道はないと思う。
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