先般の選挙に前後して、“政治”への関心は高まるばかりだ。
いうまでもなく、既存の政治への危機感が背後にあり、
>政治(せいじ)とは、国家など集団や共同体における、統治に関する活動。「まつりごと」とも言う。リンク
という政治本来への回帰を、大衆が潜在的に欲しているのはもはや確実である。
では、このムーブメントがそのまま社会変革に向かうのか、と言うと、まだまだ楽観視はできないと言うのが実感だ。
実際露店や会社で若者に話をしてみたが、
「今の政治には違和感を感じるが、自分達でなんとかできるかというとそれは無理な気がする」
という意見に落ち着いてゆく。
これはどういうことなのだろうか?
と、さらに聞いてゆくと、政治という古臭いシステムに対する否定視、そこに入っていって何の可能性があるのかという意識、どうせ政治を変えられるわけが無いという諦観が出てきた。
それらに対する答えはあるのか?ということを考えてみた。
■まず、政治を変えられるのかどうか?
これは単純に人々の意識を顕在化させてあげればよいだろう。
既に国民の過半数が反小泉であることは、この間の投稿でも明白になってきた。
ここで、そのような実感レベルの反感情や違和感を、鮮明な理論と根拠をもって構造化して発信してゆけばどうなるか?
現時点の過半数は言うまでも無く、残りの何割かも確実に小泉のおかしさに気付き、新たな展開を期待することになるだろう。
それがそのまま選挙に反映されれば、反小泉はもちろん、新しい認識に則った立候補者が政権を握ることになりはしないか。そうなれば自ずと政治は変わっていくしかない。
■次に、現在の古臭い政治システムに参入するのはなんで?という疑問に対して。
全く別な手法で社会を変えてゆけばよいのでは?という意識が背後にあるようだが、それは誤りだ。
>いかに時代が変わり、中身が変わっても、『評価指標の共認』という収束=統合機能の絶対的な必要性は、不変である。
それ故に、時代が変わる時、新しい可能性(中身)は、必ず古い評価指標の世界の真只中に姿を現わしてその評価の洗礼を受けることが、顕在化するための絶対的な必要条件となる。
>なぜなら、新しい評価指標(=投稿資格)が確立するまでは、現存する評価指標(=お金)に基づく評価を獲得してゆく以外に、評価獲得の道がないからであり、また、新しい秩序(=社会統合機構)が出来てもいないのに現存秩序をいきなり壊してしまう訳にはいかないからである。
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現存の政治システムや選挙システムに対しても同じ。まずは、既存のシステムの中で評価を獲得することからしか始まらない。
だが、一旦そうなってしまえば自然と、
>最も重要なのは、絶えず新しい認識を紡ぎ出し、人々の共認内容(意識)を変えてゆくことである(新しい認識さえ共認されてゆけば、それに応じて制度etcを変えてゆくのは簡単である)。21496
のように変革は進んでゆくだろう。
政治への関心が高まっている今、そういった実現基盤が整いつつあると実感せずにはおれない。 |
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