<この様な特殊閉鎖地域に見られる現象が、屋久島や下北半島のニホンザルであり、あるいは大河に挟まれた小地域に生息するボノボの生態です。この様に、何を見るにしても歴史的に捉える視点が不可欠だと、思います。もし、その様な視点なしに、ある特殊地域の現状観察だけを大衆向けに発表すれば、殆どの素人は、ニホンザルやボノボは元々そうだったのだ(更には拡張して、サルにはボスは居ないのだ)と誤解して終います。(この点は、学者が大衆向けに何かを云う際に、深く留意して頂きたい点です。)1811
確かに、サル学に関わらず我々は、大衆向けに発表された研究結果以外は容易に知ることができません。従って、研究の結果得られた一部分である特殊解をさも一般解の様に発表されると、信じざるを得ないところがあります。
では、なぜこういったことが起こってしまうのでしょうか。これは、学問というその性質に在ると思います。例えばある分野で活躍しようと思ったら、新しい事実を探さなくてはなりません。ありきたりの事を調べていたのでは、その道の先駆者は、必ずといっていい程存在します。そんな状況の中で、結果を出そうとすると、どうしても新しいことに目がいってしまいがちです。(そのようにならない人達も当然存在するとは思いますが、往々にしてそうなのではないでしょうか)あの論文よりもっといい論文を発表したい。自分が有名になりたい。学問を志している人達は、多かれ少なかれほとんどの人がこのような気持ちを持っていると思います。始めは、好きで始めた学問も、いつの間にか、自分の地位を上げるための学問に成り代わってしまっているのではないでしょうか。この傾向は、特に、文系の学問、すなわちここで語られているサル学や、文化人類学等に多く見られそうです。私が思うに、これらの学問(心理学系)は、解釈の学問であるとです。だからこそ、自分が地位を獲得するために、認められるために何とかして面白い事例を探そうという、傾向が強くなってしまうのです。
この傾向には、表と裏が存在します。
表は、多様な解釈が生まれることによって、新しい道が開かれること。
裏は、特殊性に目が行くばかりに、本源的なものを見失ってしまうこと。すなわち、なぜ自分は、この学問をやっているのか。この学問は、人類にとって、どのように寄与しえるのか。という事がおろそかになってしまうことです。
結局そのような状況に陥ることで、彼らは、通常の判断ができなくなり行き過ぎると事実の捏造まで行ってしまうのだと思います。昨年あたりに起こった古墳捏造事件が良い事例でしょう。
では、学問の裏の部分を極力減少させるには、どのようにしたら良いのでしょうか。
私は、問題は、学問の世界が、現実からあまりにも閉ざされてしまっていることだと思います。現実から閉ざされた社会の中では、本源的な意味を忘れてしまいがちになってしまうのではないでしょうか。
例えば私の大学院時代は、都市デザインという学問を学んでいましたが、実際のまちづくりのお手伝いをさせていただいていました。そこでの目標は、どうしたらまちが元気になるか。です。そのためには、他のまちが行った面白い事例をいかにぱくるかという事も考えていました。完全な現実とは行きませんが、リアルな世界であったと思います。このように現実に近ければ近いほど、他の人が行った良いことをいかにうまく使うかという方向に向かうのだと思います。
まずは、学問の世界を外に開くこと。確かに、大変な事だとは思うのですが、非常に重要なことだと思います。
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