「自分探し」ではないが、何か新しい物事を始めようと考えるときほど、知らず知らずのうちに「自分」という観念が付いて回っています。(50965「自分」という観念こそ、旧観念無用の中心ターゲット)
まずは自分の理想(価値観念)ありきで、そこに現実対象を篩いにかけて、都合よく事実を捻じ曲げる訓練を繰り返ししてきたのではないでしょうか。(1988 現状の「科学的事実」と言われているものの怪しさ)
我々は義務教育(=個人主義教育)を通して、この思考手順が習慣化しているのだと思います。何より、人と違う答えを持つことが善しとされる。自分の為に都合の良いの知識の吸収。
しかし、認識吸収の動機はそういうものではないのでしょう。
この会議室の投稿の文面からその対象(人・課題)が見えてきますし、露店経験からいっても新しい認識を吸収しようとするときは、具体的な相手(お客)が思い浮かんできます。相手の不全をなんとかしてあげたい!この閉塞した状況をなんとかしたい!という欠乏意識から感応(本能⇒共認)回路をもって現実を対象化し、答え(=充足可能性)を模索する。その為に 認識が必要 ということなのだと思います。
>「必要か否か」という切り口は、認識の必要につながりやすいようです。
『必要かどうか』という真っ当な判断の土俵が出来た以上、「物的商品」も「遊興・芸能」も、「新しい認識」も、全てが同じ土俵上で判断されることになる。(33821「超国家・超市場論23」)
>「不必要」というだけでは答えになりません。「では、何が必要なのか」まで考える必要があります。人類・社会の原基構造まで解明して初めてその答えが出せます。だから、「必要か否か」から新しい認識の必要⇒勉強の必要へとつながるのだと思います。(44288)
自分の価値観念や規範観念で取捨選択していたら、活力は落ちる一方。
「みんな期待」に応える為。上記の認識は会議室への投稿や露店活動はもちろんのこと、普段の生活・仕事すべての場面において 欠く事のできない認識であると思います。
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