>とりわけ現代は、学者やマスコミや官僚etc身分社会の勝者=社会統合階級が「個人の自由」を謳歌すればするほど、弱者たる非統合階級の自由はなくなってゆくという構図に、注目する必要があろう。(2240)
“自由である事は当たり前、自由の何が問題なの”という声は露店の客からも良く出る。そう聞かれた時に庶民にとっての“自由な時”を振り返ってみると、恋愛等の男女関係や食事や物を買う時、映画や音楽の選択肢等、主要には遊びや趣味の領域にしかない事に気付く。逆に、社会統合といった地平では、不自由さが目に付くばかりである。結局、自由とは現実的には名ばかりで、現在の商品市場を支える為に使われている都合の良い言葉である可能性が大である。一般市民を解脱領域というどうでも良い領域に押し込み、社会から遠ざけ、統合階級としての身を確保する為に上手く利用している、とも言える。
かつて、農業生産から工業生産へという生産様式の移行は、核家族化を促し、同時に村落共同体を崩壊に導いた。この流れそのものも、社会全体が個人の豊かさを求めたが故の必然的な変化(自然の流れ)と捉えていたが、視点を変えれば、それは統合階級が自らの地位を磐石のものとする為の方法論であったのでは、という疑いも出て来る。何故なら、その後、市場拡大と共に大衆が求めた豊かさの中身は個的な(自由な)解脱へというベクトルへであり、それは統合階級にとって最も恐れる大衆共認の力を解体させる(無能化させる)目的があったように見えるからだ。
>上辺は平等を装っているが、「個人の自由」とは強者の論理なのである。(2240)
市場拡大の停止が意味するところは、真の自由の在りかに一般庶民も気付いたのだと思う。
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