市場経済の真っ只中で生まれ育った私達の感覚で、採取時代の諸現象をみることが、贈与という様式を解り難くしている。市場社会での交換の目的は、金儲けである。それも、究極は私権主体としての個人の金儲けであり、(私権)集団はそれを実現するために利用するものでしかない。だから、儲けが少なければ寝返る。
そこでは、より多くの金を掠め取るために、表層的な『効率』という価値が重んじられる。その価値の下では、他のどんな深い価値も捨象される。これが、人間本来の備わっている、集団の統合や成員の充足という価値に視点が行かない理由である。
そのような意識から、採取時代の(黒曜石などの)物の流通をみると、集団の統合や成員の充足という価値を捨象した、交易という市場社会の価値でしか捉える事しか出来ていない。これが多くの学説が陥っている問題点である。
例えば、自集団も相手集団も価値が高いと認めるものを、相手集団に贈るという行為は、(経済)効率という視点からはマイナスでしかない。しかし、日常的に他集団との緊張関係が続き、集団内の統合も成員充足も脅かされる状況になれば、これを回避しそれらを取り戻すことが本源集団にとっての第一価値であるのは当然である。
このように贈与というシステムを理解しようと思えば、同類闘争、人は何に拠って充足するのか?集団が統合されて初めて成員の意識も統合される!などの、人類の意識や社会の構造の理解が前提になる。こういうプロセスを経ることによって初めて、現在的課題としての市場を越えて、共認社会の実現に向う事ができるのだと思う。
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