先日のなんでや劇場で子育てをどうしたらいいかという話になったときに、これからの子育ての可能性としてあげられたもののうちに企業の共同体化、企業における共同保育というのがあった。ただ、みんなで子育てをするというだけじゃ解決にはならなくて、あくまでもその大前提として「自分の子→みんなの子」という育てる側の意識の転換ができるかどうかがカギを握っているとのこと。
確かに、「自分の子」という意識が残りつづける限りは、最終的には自分がやらなければならないという状況からは抜け出せないので、みんなで子育てをしても子育て不安がいくらか緩和されるという程度で、解消されるわけではない。
じゃあどうしたら「自分の子→みんなの子」という意識の転換ができるんだろう?
かつての村落共同体において>子供を集団の子として育てる(25925)ということが可能だった理由を考えてみると、
>昔の農村では子供が生まれると村中で喜んだと聞きます。つまり周りからの期待は高かったし、現代のお金と同じくらいの評価を得ていたと思います。
村のための子供(戦闘員)を作ることが主目的であり、闘争存在である男は子供作ることも闘争であり、評価があり、活力があったと思う。(76339)
みんなからの(共同体の一員としての)期待を受け、その結晶として生まれてくる子供たち。みんなの期待の結晶だから一人一人が「みんなの子」だし、みんなで育てる。子供もみんなからの期待を受けてすくすくと育っていく。
ってことは子供に対するまわりからの期待(=闘争圧力)があって初めて「みんなの子」になるってこと。本来子供っていうのは、いろんな人から必要とされて産まれてくるもので、単に自分が欲しいからというだけで産むものではないんだってことなんだと思う。
>現時点での我々の活動で重要なことは、「認識闘争に勝っていく」ことで、それがイコール共認域形成→安心基盤確保に繋がっていくのだと思います。
>そして、この共認ネットワークの一定の広がりによる“共認域”=安心基盤が土台となって、古い制度や縄張り(場)が一気に解体され、具体的な生殖や子育ての場としての本源集団の構築とそのネットワークの形成に繋がっていく(93876)
人々の意識を対象化し、そして現実を対象化し、その中から新たな可能性を発掘していく、それが認識闘争。そこで出てくる課題に対して、男と女がどういう形で役割を担っていくのがいいのか、どういう人材が必要なのか等、認識闘争を通じてそういったものがより鮮明になっていく過程において、生殖、子育ての場(=子供に対するみんなの期待)が再生されていくんじゃないかと思いました。 |
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