>現在すでに人々は、社会不全⇒人(ひと)収束を伴いつつ、外向収束から認識収束へと向かっている。この認識欠乏が顕在化するのは、もはや時間の問題である。(31767)
という投稿がされたのが3年前。
「人々の意識は本当に認識収束へと向かったのか?」という問いへの答えは結構明確に見えてきているのではないかと思う。
なんでやがあり、ブログがあり、そこに集う人たちの動き、声などを見聞きすると、意識の広がりや新しいものへの動きを感じる。これが、認識欠乏が顕在化してきているということなんだろうと思う。
「国家って何だっけ?」という疑問は周りの人からも出てくる発問だと最近回りの人と話していて分かった。そういった問いに直面して改めて考えてみると、みんなやはり悩む。統合されていたものが明確でない、機能していない今は、ただぼんやりと「国家」を捉えても意味もなく迷走してしまうことになる。
>もともと国家内部には「集団統合のための共認原理」=“集団原理”しかなかったということになります。(83900)
でも今はもととなる「統合のための原理」がない。だとすると何かしらの原理、構造、理論、そういった具体的な多くの事例、必要命題とその共認が必要になるということか。
人々が一番収束するもの、みんなの、全体の活力を上げられるものは何か?を具体的に把握し、それを実践するための構造化やシステム・制度の構築が必要ということか。
人々の意識を統合できる、皆が認める活力を挙げられる収束できる、その価値となる観念はいったいどういった類のものか?それを見出すのがそもそも統合機関としての一環なのかも。
活力を挙げ、人々の意識をひとつにするもの。それを統合軸として皆で生起させたい。
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