> 純粋な知の追求をする自分達は無垢な存在であり、その知の追求は善であり、それを誰もとがめることが出来ないという幻想観念を共認しているのではないでしょうか。(5248)
核兵器に限らず、先端的な科学の成果が軍事利用から実用化されていく(民生利用と呼ばれる)例は多い。カーナビに用いられているGPS然り、いまや社会的に不可欠なインフラとなっているインターネット然り。むしろそれが一般的だと言える。宇宙開発にしろ医療にしろ、どう考えても科学とは、直接的か間接的かという距離的な違いはあっても、何らかの実用とは切っても切り離せない。
> 科学者とスポンサーとの間、また、科学者と社会との間には「重要なことは真理の発見である」「真理の発見は絶対的な価値である」という暗黙の了解が成立している。それが科学者の存立基盤の一つになっている。(5229)
この「真理」とは、実際は、広汎な領域で応用できる可能性を持った普遍的な知識や認識のことであり、当然、研究成果に対する社会的な評価もそれに比例している(例えばアインシュタインの「E=mc2」とい公式が核兵器開発の起点となったのと同じように、或いは、DNAという存在の発見がその後の様々な医療技術に繋がっていったように)。私権時代には、それが私権闘争勝利の可能性であり、だから先端科学の成果は真っ先に軍事技術開発に拾い上げられたのだし、その潜在的期待が科学研究と科学者の存在自体を支えてきたのは間違いない。にも関わらず、
> 科学が役に立つのは、発見された事実がたまたま応用工学や臨床医学で利用可能であった場合だ。研究成果によって人類に貢献できることは喜びだが、それは偶発的な付加価値といってよい。(30006)
という様に、「真理」なるものがあたかも(役に立つか否かという)社会的期待と切り離されて価値を持つ存在であるかのような、あるいは「役に立つのはたまたま」などという発言。ここからは、研究成果のもたらす社会的影響に対する責任逃れにとどまらず、大学という温室空間で特権的身分を手に入れたがゆえに、己の存立基盤についてすら、現実が見えなくなってしまった科学者の姿が見えてくる。 |
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