>この『必要か否か』という判断機能は、存在(本能・共認・観念)を貫く、極めて基底的な地平にある判断機能である。あるいは、全ての生物に備わっている不可欠の生存機能であると云っても良い。33995
外圧に適応(生存し種(仲間)が存続)していく為に『必要か否か』という判断機能が全ての生物に備わっているのであり、『必要か否か』という判断機能の前提は、外圧を感知し(人類にとっては)それを共認出来るということとなる。
超集団社会では、みんなにかかる外圧を認識し始めて必要か否かの判断が出来るのだし、みんなの期待が感受出来るのだと思う。
'70に貧困が消滅し、同時に生存を直撃する飢えの外圧から人々は開放された。豊かさが実現し、多様な新製品が市場に現れ、モノは各家庭に行き渡った。'90には、かつての3種の神器や3Cのような消費の柱となるみんなが欲しいと思うモノが無くなってしまった。
替わって大掛かりな装置空間を持つテーマパークやバーチャル空間に遊ぶTVゲーム機が現れて来た。”人間の能動的能力”を廃し、”モノについて考えるという力”を衰弱させる1371・・これら外圧から完全に切り離された傍観者となることを強いられる解脱商品は、類的な解脱充足を与えることが出来ず、テーマーパークは不振や閉鎖が相次ぎ、ゲーム人口は、2000年以降減少の一途をたどっている。
一方携帯電話や旅行商品など、超集団社会の中で直接的な人つながりを助ける商品が脚光を浴びるようになる。
人々の必要判断は モノ→遊び→人つながり とめまぐるしく変わっていったのだと思う。
しかし「やりたいことが見つからない」・・人つながりの中で見つけた仲間の中に一緒に楽しく過ごす以上の課題が無い。みんなの期待するところが分からない。果たすべき役割が見つからない。社会が見えてこない。人つながりの中にも答えは見つけられなかった。
みんなにかかる外圧が見えず、従って応えるべきみんなの期待が見えず、真直ぐに『必要か否か』という判断ができず、消去法で自ら課題を設定するしかなくなる。授業に出る、資格取得に挑戦する、・・目先のやるべきことを設定しガンバってみる。さらには、外圧を体感するために戦時下のイラクに出かける。
超集団社会では、みんなにかかる外圧は体感的に認識出来ないのであろう。それには観念を必要とし事実に基づく構造認識群をツールとしてはじめて外圧の状況が認識できる。
また、外圧認識はみんなに共認されてはじめてみんなの期待→課題となるので「要・不要の判断は個人でしても意味がない 」34293
現在最も必要とされているのは、人つながりの中にも見つけられなかった答えと、それを考え共認していく仲間のいる場であり、それが、『認識形成の場』”なんでや”である。 |
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