>意識は固有不変の統合された何かではなく、時と場所によって変わ
るものであり、もし自分で自律的、統合的な「自我」というものを感
じているのだとしても、それは妄想であるというのがラカンによる自
我である。(2891)
フロイトの弟子ジャック・ラカンの「鏡像段階」を調べてみました。
>鏡像段階とは、幼児は自分の身体を統一体と捉えられないが、成長
して鏡を見ることによって鏡にうつった像が自分であり、統一体であ
ることに気づくという理論である。幼児はいまだ神経系が未発達であ
り、自己の身体の統一性を獲得していない。そこで幼児は鏡を映る自
己の姿を見ることにより、自分の身体を認識し、自己を同定していく。
鏡に映しだされる形により、自己を把握する。しかし、鏡は左右対称
の虚像であり、自己の真の姿を映し出しているわけではない。この鏡
とはまぎれもなく他者のことでもある。つまり人は他者を鏡にするこ
とにより、他者の中に自己像を見出す。しかし、そこに自分の真実の
姿が映っているわけではなく、常に虚像でしかすぎない。自己を同定
し、自己を支えるために他者が必要だが、決してそこに真の自己と出
会えるわけではない。人は常に出会い損ねている存在なのだ。ここに
人間の根源的な空虚さを見出せる。それは人間が象徴界に参入する始
まりでもある。象徴界に参入する自己は、常に何かが欠落している自
己であり、欠落前の自己に戻ることは決して出来ない。ここに欲望の
誘因を見出すことも出来る。(百科事典「ウィキペディア」
リンク)
ラカンは「自分」の根拠は「自分の内部」には無い。他人の中に自
分があるとしながらも、自分でないものを自分の中に抱えるのが狂気
だとすれば、人間はだれしも根源的に狂人であり、ここから幼児が社
会に統合されていく過程が始まるとしている。
分かったようで分からない話だが、では現代の生物学・大脳生理学
での事象から考えてみればどうなるのか。
>「三つ子の魂百まで」と言われるように、0〜3才のいわゆる乳児期
の間には、主に親との間の親和充足体験によって気質=おそらく正確
には共認原回路の強さ弱さが概ね形成されます。また、誤信念課題の
成否の境目が4歳であることから、片言の「ことば」とともに「目の
前に無いものを対象化する」という観念機能の最も本質的な能力を身
に付けます。つまり、共認機能と観念機能の基礎回路がつくられるの
がこの段階だと考えられます。(msg:55475)
また、史論版で以前、投稿されていた「自分」の行為と「他者」の
行動を結びつける、ミラーニューロンの例もあります。
また、幼児期に十分な親和充足を得られないとサイレントベビーと
なる例もあります。
同類他者の親和充足や評価を通じて自己が形成される。自己を原点
に置いている以上、両者は似ているようで決定的に違う。これら上記
の事象を説明するには、自我と共認の関係を明確にすることなしには
理解でいないと思います。 |
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