>そこをあえて分離して「心の豊かさ」だけが強調されればされるほど、ますます心は貧弱になってるように思う。<
>それに、「経済的豊かさ」と「心の豊かさ」という概念フレームで思考した途端、その議論は一人でやる綱引きのようなもので、いつまで経ってもどれだけ考えても、手ごたえ(答え)のない不安や、決して均衡しない不可能視感ばかりが募ってゆく。
この、実態からの乖離と思考時の違和感。
どうもこの概念自体怪しいんじゃないかって思った。<(24097 「心の豊かさ」に感じる胡散臭さ )
「経済的な豊かさ」とかや「成果をあげること」を求めるのか、「心の豊かさ」を求めること、どっちを第一にするのか、といった思考をよく聞く。
それは、例えば「心の豊かさやゆとりを犠牲にしてまで、なんで成果を上げないといけないの?」といった疑問として出てきたり、学校での「ゆとり教育」、会社や仕事の休みを多くして心の豊かさを取り戻そう、といったように制度として実現もされてきている。
こういった思考をする根底には、成果を上げるためには、自分の心を犠牲にしないといけないんだとか、心の豊かさは、闘争課題以外のもの(趣味などの解脱)で身に付けられるものだという考えがあるように思う。
どれも、私権時代特有の思考からくること。(『実現論』実現論2_4_05)
以下のことを認識する必要がある。
『心の本体=共認機能の形成過程』(リンク)
共認機能は、外圧状況を共有する周りの仲間との肯定視・同一視→課題共認→役割共認→課題を実現する、という過程で強く形成されていく。豊かな心=共認機能は、皆との共通課題=闘争課題を担っていくなかで、そして、成果を上げていくなかで、強くなっていく。
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