昨日梅田の地下を歩いていたときのこと。大声でわめきつづける高齢者の男がいました。
大声の独り言です・・・・黙っていれば狂ってしまう・・・だからわめくのかもしれません。
すでにわめいている時点で狂っているのかもしれませんが人は誰かと共認充足していなければ生きていけません。社会的役割を負われ、身内もなく極端に孤独になった都市の高齢者は時にこの男性のような状態になるのかもしれません。
言葉を発せない子供が泣いたりわめいたりするのと同じように大人という規範が何らかのきっかけで外れてしまったとき、共認欠乏(=不全)が人を襲ってしまうのでしょう。
話は変わりますが、私がいつも露店をやっている処にもある中年の女性が毎度訪れます。その方はこちらの話をなにも聞かずにいつも自分の話、自分が感じたことを延々と話し続けます。壊れてるナーと思うのですが、普通の会話はできるのです。その方を見て最も違和感を感じたのは決してこちらの目を見て話さないということです。
共認の原点は相手の目を見て相手の想いをつかむこと(=同一視)から始めるとしたなら、この女性は知らず知らずのうちに共認回路が失われてしまったのでしょうか。ただ、彼女の場合も前者の男性と同じく心の奥にある共認欠乏が生起するので、それを解消すべく言葉を発し続けるのだと思います。
「おばさん、あなたの言葉、何も届いていないよ。」どこかで何らかの方法で伝えてあげたいと思います。
このように現在、共認不全は高まりつつもそれをどうやって解消したらいいのか見えない人や事がたくさんあります。
「自分発→相手発へ」自分の意識を変えることさえできれば簡単なのに・・・。
それを最も難しくしているのは全ての活動を支配している「自分こそ原点」という潜在意識に刷り込まれた架空観念なのかもしれません。そこを取り出して明確に意識的に否定しない以上、これらの人は絶対に変わることはないでしょう。その為にはその人の行動に現れている欠乏を肯定視してあげることが必要です。
その上で・・・まさに頭で塗り替えたら終いを伝えられればと思っています。 |
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