人権擁護法が成立寸前である。
この法案には様々な指摘があり、根本的な問題を秘めていると言われている。
法案の問題性を指摘するに当たって、まずは“人権”の問題性を改めて明確にしておきたい。
■ホッブスによる人権の発明と封印
17世紀、トマス・ホッブスは著書「リヴァイアサン」にて、自然権の定義という形で、人権という概念を作り出した。
>「各人が、彼自身の自然、すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の欲するままに彼自身の力を用いる自由」を「自然権」として概念定義し、そうした権利の行使される人間社会のありよう=「自然状態」を、「万人の万人に対する戦争」状態と表現しています。つまり「人間の自然状態」を、中世における牧歌的な良きものとしての意味合いではなく、極めて危険なもの、破壊的なもの、悲惨なものとして考えたわけです。(25563)
人権とは、各人の自由意思と欲望でのみ司られるものであるから、ほって置くと「万人の万人に対する戦争」状態にしかならない。ホッブスはそれを抑止するもの=自然権を廃棄させるものとして
>公共の福利(コモンウェルス)を第一として国家を建設すべしという国家主権論を主張(25563)
している。
■ロックによる封印の解除
半世紀後、ジョン・ロックは、
>自然状態を牧歌的・平和的状態と捉え、公権力に対して個人の優位を主張した。政府が権力を行使するのは国民の信託(trust) によるものであるとし、もし政府が国民の意向に反して生命、財産や自由を奪うことがあれば革命権をもって政府を変更することができると考えた。リンク
生みの親であるホッブス自身が、その危険性ゆえに封鎖するに至った自然権=人権。
その封印を解き、こともあろうに国家・政府を差し置いて行使してもよろしい、と言い切ってしまったのである。
■人権が暴走してこなかったのはなぜか
ところが、それ以降、封印が解かれたにも関わらず、ホッブスが危惧したような「万人の万人に対する戦争」には至ってはいない。
それはなぜか。
暗黙のうちに、人々=集団内において、秩序共認が図られていたからではないだろうか。
ロックの言うところの人権が本当に一人歩きしてしまうと、「なんでもありの戦争状態」に突入することは火を見るより明らかであり、それを避けんがために、秩序維持の共認が各集団や各国家で形成されていったのではないだろうか、と考えられる。
秩序共認の目的が、各々の集団や国家の私権の確保・維持のためだったとしても、とにかく人権の暴走だけは封鎖されてきたのである。
■人権擁護法の危険性
人権擁護法の危険性は、各新聞の記事や、リンクにもあるように、
・人権侵害の定義が非常に曖昧であること
・ 5名の人権委員会と、2万人の人権擁護委員に絶対的な権限が与えられること
・上記の各委員が被差別者、障害者などが優先して選ばれること
にある。
つまり「一握りの」「声の大きい」「弱者」に、「自由に」秩序共認を破壊できる権利を与える、というのがこの法案の骨子であると言える。
ヒステリックなまでの嫌煙運動家やジェンダーフリー信者がそのような権限を国のお墨付きで手に入れることができるのだ。
>旧観念が「自由」というお題目とは裏腹に、一握りの人々によって、規制だらけのファッショ社会を作り上げていく(58457)
これまでなんとか阻止されていた、上記のような状態を、この法案は実現させようとしているのである。
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