子供たちの会話を聞いていても、自分に比較的近い年代の子と話をしていても、キャラという言葉がよく出てくる。
「いいキャラしてんな〜」
「そろそろキャラ変えようかな。」
などの会話は、最近であれば誰しも一度や二度は聞いたことがあるかもしれない。
今の若者は、相手や場によって自分を変えることができる人が多い。それはコミュニケーションスキルが以前よりも必要とされる今の流動的な時代にあって、当然の成り行きとも言える。昔であれば、歌と顔さえ良ければそれで成立し得た歌手が、今“テレビ”で売れている歌手を見てみると、やはりというか、一様に会話能力が卓越している。
繁華街でキャッチをやっている友人がいるのだが、その子なんかは本当にコミュニケーションが上手い。すなわち相手によってのキャラ変換が上手いのである。対象をしっかり把握して、聞き役に回るのか、笑わせ役に回るのかを瞬時に判断して会話をする。
では、なぜこうしたキャラ変換という事象が今の時代に前面に出てきたのか?
もちろん上記にあるように、流動的な時代の要請が原因の一つであろう。
もう一つには“受け入れて欲しい”“評価して欲しい””自分を肯定視してほしい”という強い現れである。
肯定視してほしいという欲求は、自らも他者に対して肯定視を心がけるようにしむける。今の若者は青年期の自我(屈折)期を除けば肯定視能力がおじさん世代よりも比較的高いと思われるのは、それが一つの理由でもある。
そもそも“自分”という確固としたものなんてソモソモなくて、自らの意識作用や他者からの認識によって決まるものなのだから、今の若者がキャラ変換を念頭においたコミュニケーションをしても何らおかしくない。むしろ妥当な方向だとすら思う。ましてや、そもそも存在しない“自分”に固執して異端視されるよりは、キャラ変換をして肯定してもらえるなら、やはり後者を選ぶのは必然であろう。
しかし、こうしたキャラ変換に全く問題がないわけではない。これが原因で引き起こされたと判断された離人病や鬱病が急増しているのも事実である。
人が苦手、会話が苦手ということから生まれる苦しみもあれば、コミュニケーションが上手いがゆえに生まれる苦しみも、また一方であるのである。それが複雑な人間の一面でもある。
|
|