>集団統合上の矛盾に直面し、だからこそ改めて人工的に「祭・祀・政」が一体となった”特別の場”を設ける必要があったのでしょう。
サラリーマンであれば誰もが経験する“会議”。経営会議、重役会議、部門会議、スタッフ会議。。。会議と名のつく代物は、一体どれだけあるだろう。「なんでこんなにたくさん会議があんの?うっとうしいわ。」と愚痴っていた友人のことを思い出しつつ、しかし当然の様に普及している会議の在り様に違和感も覚える。
>会議(かいぎ、英 meeting)とは、関係者が集まって相談をし、意思決定をすることである。またはその集合のこと。会議は、組織において最も重要な人間と人間との間の意思を伝達する手段である。会議は、組織において非常に一般的かつ普及したものであるが、組織の多数の者は、会議があることを当然に思っているので、会議が適切な計画と実行に結びつかない限り、会議そのものが貴重な資源の著しい浪費になりうることを忘れてしまっている。このような会議が持つ重要性に照らして、会議を考案する専門職が近年登場した。(リンク)
ウィキペディアはいつも単なるお題目に終始せず、リアリティある解釈を披露してくれるのでおもしろい。
集団規模の拡大とそれに伴う集団の分割及び多段階編成。結果、単位集団ごとに強い自己収束性(閉鎖性)のベクトルが働き、それは集団間の不協和音を招くこととなる。そのような組織統合上の矛盾を払拭するために設けられた、“特別の場”。サラリーマン社会にしぶとく根付いている“会議”とは、採取生産時代から続く“まつり”の名残ではないかと思う。
だから、愚痴る友人の気持ちはよく分かる。社会の圧力構造が様変わりしていく中で、それでも続く「非日常的」で「象徴的」な会議など、形骸化する一方だ。
いつの時代でも、私達は32642>闘争課題=能力上昇課題と解脱が一体となった日常の営みを求めている。
32642>われわれが次の時代の”まつり”を考える場合、もともと持っていた解脱充足と同時に、皆の期待と評価圧力に貫かれた能力形成の場であるということが、その不可欠の条件であると思います。
誤解を恐れずに言えば、これから求められる“会議”とは、私権社会で勝ち抜くための方針を考える場ではなく、社員の活力を再生させる場。そして、復活した活力を生かす道筋を考える場。
“会議”を、“まつり”に変えていこう。
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