現在起きている社会の諸問題をなんとかしようと、国家を始め企業や学校や家庭など、社会の諸制度の改革が至る所で提起されている。 また、制度以前の心の問題として「気持ちの持ちよう」とか「人間関係のありかた」に関する識者の提起もたくさんある。
しかしそれらが、本当の答えになっているか?と言えばそうではない。
そうした改革の提起は、いずれも小手先であって根本的な解決にはなっていない。
時代閉塞とは、そうして、将来の展望を失い、可能性を見出せなくなったという事だと思う。
なぜ小手先なのかといえば、制度の問題でも心の問題でも、その根幹部分の枠組みに踏み込んでいないからである。 社会の問題というと漠然としており、普通、経済の問題とか、教育の問題であるという風に構造化されて「問題」として捉えられ、夫々の研究者や行政がその解決に向かうようになっているが、そういう枠組み自体温存されたままだからである。
社会の根幹部分を変える事ができず、閉塞したままなのは、
社会の諸制度を司っているのが、学者や官僚など、まさにその制度によって(存在基盤である)専門領域を保障された専門家(プロ)だからこそ変えられないのではないのか?
当然ながら、制度は民主的な手続きによって成立しおり、そういう意味では社会的な共認によって成立していると言えなくはない。 では何が問題か?
制度を考えるその思考の枠組み(構造認識)が固定されてしまっている事だと思う。
今必要なのは、例えば
「分断されてしまった企業(=闘争の場)と家庭(=生殖の場)」86775
で提起されているような、
企業活動がうまくいかない→どうする?というフレームと、家庭がうまくいかない→どうする?というフレームを根幹部から取り払って、もっと基礎構造に踏み込んで闘争と生殖の場をどう構築するか?という位相にある事は間違いない。
ところが、なぜ会社と家庭は別なのか?というような素朴な疑問は「それが当たり前だから」という常識の中にかき消されてしまう。 これは、固定された思考の枠組みの中でどうしたらいいか?とあれこれ考える事はできても、枠組み自体は変えられないように固定されてしまっていると言う事だ。 これでは解決できない。
経済問題の専門家と家庭問題の専門家は、その専門の立場で通用するプロだから、専門領域を消滅させる方向での追求には(己の存在を揺るがす事になってしまうので)向かう事はない。
固定化された思考の枠組みが、更に制度によって固定化されている。
そして、今後、どれだけ閉塞しようとも、その制度によって身分を保障されたプロ(専門家)達はその存在を賭けて固定し続けるだろう。 更にまずい事に、社会秩序を揺るがす問題が続出すれば余計に秩序維持に向う意識の力学によって、制度はより強固なものとなっていく可能性もある。
このままプロ達に任せたままにすれば、閉塞は進む一方である事は間違いない。
プロ達に可能性がないなら、誰でも、この状況に気づいた者から、閉塞を突破する新しい構造認識を創り出し伝播する事がまず急務であり、今何よりも必要な活動である。
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