全くモノを買わないわけじゃないのに、「特に欲しいものがない」のはなんでだろう?「今欲しいものは何?」って聞かれると困ってしまう人もいるんじゃないだろうか。
「欲しい」という言葉を使うとなんか無くなるのだ。なんかこの言葉に魅力が無い。
考えてみると「欲しい」という言葉は結局要求だ。
「〜が欲しい」→勝手に買えば?
「〜して欲しい」→なんか押し付けみたい。
自分発の欲求。下手すりゃわがままだし、多分に幻想性も生じてくる。充たされない現実否定発?
四次元ポケット、白馬にのった王子様、豪邸、身分、才能、成功、、、、、、。非常に個人的なイメージ。
>この『必要か否か』という判断機能は、存在(本能・共認・観念)を貫く、極めて基底的な地平にある判断機能である。あるいは、全ての生物に備わっている不可欠の生存機能であると云っても良い。(33995 四方さん)
外圧に適応するために常に「必要か否か」の判断をする。つまり外圧=現実という課題を前にした実現のために「必要か否か」の判断がある。
特に欲しいものはないのに、実際買ってるものはあるという矛盾。良く考えれば買ってるもの(お金を使ってるもの)の多くは生活費レベルであることに気付く。または共認充足の媒体になるようなもの。(「靴下やぶれたから買うか」とか、「携帯壊れたから買うか」とか、、、。)
欲しいものは無いが、必要なものはある。それは臨戦的に適応する上で判断しており、「欲しいから買った」という実感では無くなってきてるのではないだろうか。「そのとき必要だったから買った」のほうが近いように思う。
じゃあ何が必要かという視点は現実を直視して背景を押さえなければできない。だから今現在は「衝動買い」なんてのも多いし、なんか気を紛らわす代償的な買い物もあるだろう。
しかし、確実に「必要か否かの判断土俵」は顕在化しつつある。
企業があくまでも「欲しい」を強調する(需要を喚起する)ようなことをしていては逆にどんどん鼻についてくるかもしれない。
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