>従って、市場の真の起源は、私権闘争の抜け道としての、快美幻想の共認、もっとはっきり言えば「騙し」をテコとする私益行為以外には考えられない。>この科学技術の発達による快美充足の可能性(快適さ利便さ)の実現こそ、中後期の市場拡大の原動力である。(30709)
自由な市場拡大のおかげで快適さ利便さに充足できたのは、'70代までだったのではないだろうか。一つの家でみても自転車からバイク、車はもちろん洗濯機、炊飯器、テレビ、冷蔵庫など家電の普及は利便性の象徴だった。以後、家から抜け出し一人一人が「快」適な機能や利便から、妖しげな造形(デザイン)やセンスを追い求め、身辺に買い揃える「美」の競争へ変身していった。さらに希少なものと欲望は肥大してブランド品、やぶれたジーンズなど、みんなの評価の頂点にあるものに関心が移っていった。
物の評価は、所有した途端に充足度は減退してしまうもので、今度は旅行、グルメ、健康、ペット、メル友と癒し、会話を求めて代償充足は、人へ収束してきた。かくして短命な商品市場に翻弄される大企業から、私的な充足から、みんなの充足の媒体を標榜する企業が社会の主役になってきた。基幹産業や金融資本に変って、みんなの充足、評価競争を媒体する企業の隆盛で、市場の役割は終わると思われる。何故なら日常に必要な物は、どれも十分に快美であり希少価値とも思わない。
>今後の社会の同類闘争は共認闘争とりわけ評価闘争が主軸となると思われるが、そこではこの条件として、万人が認める明快な価値軸=評価軸つまり価値観念が不可欠となる。この観点で見れば、実は貨幣は、社会統合の為に価値観念化された評価指標の最初の実現体である、という意外な事実が見えてくるのである。(5902)
市場の行き詰まりで滞留し出した貨幣は、今後、みんなの充足が自分の元気の源(=評価されることがヤリガイ)と思える事業や活動に大きく舵を取って社会を元気つける活動に流れていくと思う。
日本の農村に、「結(ゆい)」の制度がある。相互扶助の活動であるが、そこには、期待、応望、感謝を基本に、みんなが必要と思う活動にみんなが知恵と力を貸し、対価や評価はみんなで共有する精神が流れている。みんなを対象にした事業は、幻想価値や資本、序列など入り込むスキはなく素晴らしいものだと思います。
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