>「存在不安」は、私権時代の全ての宗教・全ての局面に存在すると私は考えています。キリスト教においても、仏教においても、人々が求めるのは「救済」です。神の御座に祈るのは、魂の救済であり心の安楽であるのは洋の東西を問わず変わりません。これこそ、私権社会の宗教が「存在不安」を抱えている証ではないでしょうか。
「存在不安」を抱えている証。
これ、よく分かります。
これまでいろんな宗教活動をしている方からお誘いを受けることを数限りなく経験してきました。実際に会場に行ったり(体験会員?)いわゆる地域の指導者という方が自宅に来られたり宣教師が自宅に来たりというケースがほとんど。
さして入信なんて気持ちはさらさら無いんだけど、どんな話が聞けるのかな?という好奇心から。と、PTAやご近所という付き合いから。
お話を伺い最後にいつも「入信されたきっかけは?」とお尋ねします。
そうすると「病気で」「家族関係が上手くいかない」「仕事の悩み」といった身体上の不安や人間関係にまつわる不安がほとんどの原因での入信です。中には「家業の発展、仕事の繁栄」といった極めて私権的な発想から入信する方もあるようです。
皆さんがそうだとは言いませんが、中には教えと言動・行動が伴わない人もいて(都合信者・・・自分勝手)地域の役割を実に巧みに回避する人がいたりするのも現状です。
逆に地域の役割を気持ちよく引き受けて下さるんだけど、しっかり情報を得て布教活動に勤しまれる方も居られるのも現状です。
超ミーハーな私「入信するならカトリックかな?」と考えていた頃もありました。幼い頃、日曜学校で「イエス様」の勉強もし聖書も読み宣教師から英語も習いクッキーの作り方を教えてもらい知人の中に結構洗礼を受けたという人がいる・・・。といった理由で。
あとやはり「愛」という言葉は若い頃の私には心に響いていました。
「苦しい時の神頼み」じゃないけど不安に対する答えがないから宗教に収束という人がほとんどだと思います。
「こころのよりどころ」が欲しくて宗教にって感じがします。
>我々の言葉で、「生きる」ことは「呼吸」と同じです。
人は「オギャー」と産声を上げ今生最後の時に「息を引き取る」。
ありとあらゆる生命体と共存共栄。
ここ数年万物と同化し、その存在に感謝を捧げるネイティブ・カルチャーの精霊信仰に学ぶところが多くなりました。
最近、いわゆる地元の神社へ足を運ぶことが多くなりました。
なんて単純な私と笑いつつも、そこには「守られている」という感謝の気持ちが強く働くからです。 |
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