精霊信仰のころからあった感謝と同化は、神ではなく自然そのものや生きていることそのものへの純粋な感謝と同化です。
また、ほとんどの宗教団体の教義には、「感謝」の念を持つことの必要性が説かれています。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教などでは、信者に良いことが起きれば、それは神からの賜物とされ、当然、神(自らの一神教)に感謝することになります。
私権社会につくられたこららの宗教は、精霊信仰の頃からあった感謝の充足を、非常に巧みに使い自らの一神教への収束を高めていったのだと思います。原始共同体時代につくられた自然へ対する感謝の回路を、一神教へと転換させたのだと思います。
根底的な回路を刺激され充足するから、その宗教への収束力を高めて行くのではないでしょうか。
よく歳を取ると信心深くなると言います。現に日本のおばあちゃんとかは、歳を取るに従い仏壇の前に居る時間が長くなったりします。それほど仏教を第一と考えている分けではないのに、仏壇に祈り感謝します。これは多くの場合、信心深くなるのではなく、精霊信仰時代からつくられた人間の根底回路にある感謝の充足を感じているのではないかと思います。
また、宗教には祈願というものもあります。今でも安全祈願、合格祈願他がありますが。私権社会の中では、他の人や集団は全て敵であり、相対的に自らが優位に立たなくてはなりません。この状況の中では、自らの祈願を優先して満たしてくれる対象が何よりも大切になります。
そこでの一神教への求心力は、精霊信仰のように、みんなが同じように一体となり良くなったり悪くなったりする、自然への同化とは大きく違います。みんなが同じように良くなるのでは困るのです。逆に、他人はどうであれ自らは救われたいという気持ちになります。対象である神は、自分の幸福を満たしてくれ感謝できる架空な存在である必要があったのではないでしょうか。そして、その中では信心深いものが救われるという教団側の言葉に従っていきます。
宗教とは、原始共同体の精霊信仰時代からある根底的な感謝の回路を一神教への収束力として利用し、私権時代の相対優位の欠乏を満足させる祈願を求心力としてつくり出されたのではないでしょうか。
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