貧困という生活圧力が働いていた時代から、豊かさの追求が普遍的に共認された目標であった時代まで一貫して、第三の解脱収束先であった倒錯観念(古代宗教、近代思想)は、人々の精神的バックボーンとなり得たのではなかったでしょうか。ある時は、「自由」や「平等」を体現させるべく物的需要(三種の神器、人並み圧力)の創出を支え、また豊かさが実現された後に顕在化してきた精神的な病に対しては、新興宗教などに見られる現実世界からの逃避先(カリスマ教祖、超常現象)として機能する。つまり、その時代ごとに出現する社会不全をうまく乗り越える観念支配の役割を果たしてきたと言えるでしょう。
>従って、貧困が消滅し、私権の強制圧力が衰弱すれば、人工的に作り上げられた「私権だけ」といういびつなタガが外れて、生物本来の基底的な判断機能が再生されてゆくのは当然である。(33995 四方氏)
最近のベストセラーでも宗教家のエッセイや思想本が必ず上位に入るのは、物的豊かさの実現→私権の強制圧力の衰弱を経て、新たな目標として精神的な支柱を求める現象なのかと思われます。これは少子高齢化が進むにつれ一層顕著になると思われる現象であり、精神の安寧(信心や祈り、参詣などの宗教的行為)こそが人生の終焉を迎えるに当たっての高齢者の最終課題となっているような気さえします。
>そうなれば、従来の私権的なるものの全ては(身分もお金も、あるいは物財も解脱も)、改めて『必要か否か』という土俵上で真っ当な判断の洗礼を受けることになる。
そうすると、近代思想や宗教という私権とは対極の位置にあるように装いながら、実は私権の強制圧力と同じく人為的な観念支配(強制共認)であった事が早晩露呈されることになるのでしょう。現実世界を直視せずして、自分課題のみを解決する為の倒錯した手段が本当に必要か否かの正しい判断が今求められており、混迷した社会を導く鍵となるのだと思います。 |
|