>私は「子供」は一つの旧観念なのだと思います。
少なくとも、近代以降でしか通用しない特殊な観念だといえます。だとすれば、子供も大人と同じように、「社会の当事者」(65804 今井さん)として期待をかけることはできるはずです。その期待が、ひいては、子供たちの勉強意欲につながるのではないでしょうか。
教育の場でも、「旧観念無用」が求められる一例だと思います。(84017「子供」という旧観念 阪本剛さん)
考えてみれば、これだけ多くの資格が蔓延している社会なのに、どうして婚姻には試験がないのだろう?
もしかして無試験で得られる成人(成年)の資格が婚姻なのだろうか?
だとすれば、20歳になると成人式に参加して、選挙権が得られるのと同レベルの、根拠のない身分なのではないだろうか。
それこそ「子供」と思わされていたとき、「保護者とは何だろう?」って考えたことがあった。年長者?としか言いようがなかった。それだけで敬う気持ちが観念化した。
いま、教育を業としている私から見ても、ずっと「大人な子供」はいくらでも居る。彼らに出来ないのは、お金に関することだけと言っても過言ではないかもしれない。そして、そのお金に関することをさらに考えてみると、大人が買っている品物・サービスの相当な割合が、子供によって必要とされ活用されているのだ。
精神的にも、物質的にも、とくに「必要」という地平に立って考えれば、明日からでも「子供」が「大人」を庇護すると言う逆転現象が起きても不思議ではないと、思いました。 |
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