人は、観念機能を持ち、どんな時でも状況を自分なりに捉えている。そしてそれを共認機能で確かめながら固定している。
現代社会は、いろんな問題を感じながらそれが解決の見通しも立たないまま社会不全としてつみ上がっている。その不全状況は、学者やマスコミを通した言葉で、ある程度人々の意識に固定される。
しかし、状況が報道され、なにか事件があったときに、大きく取り上げられるだけで、次第に追求がおろそかにされて、解決するわけでもなく、社会不全がどんどんつみあがっていく状況だ。
しかし、人類の最先端機能は観念機能であり、
>人類の最先端機能は観念機能であり、従って答え(に近い認識)こそが、人々の意識を統合すると共に、その答えが人々に活力を生み出し、その認識が人々の全ゆる行動の指標(モノサシ)となるからである(31767)
人間には意識を統合するための答えが必要で、その答えを共有していく機構が求めらるのだと思う。ニュース番組や新聞、バラエティでさも、日々求めている人がいるのは、その証だとおもう。問題は、やはりその質や内容が一方的で、移ろいやすく、質が求められていない点。
だから評価と闘争の場が必要であり、
>即ち、人々の認識欠乏に応える認識競争の圧力こそ、まぎれもなく新たな同類闘争の圧力である。この認識闘争の圧力が最末端をも貫く圧力にまで成長すれば、それに応える『認識闘争の場』は人類の最先端機能となり、全てをその下に収束させた社会統合機能となる。(31767)
こうして日々、みんなの関心=社会不全や未明課題を人類最先端の認識で追求していくことが可能になる。人類の最先端機能の観念機能による統合が可能になるのだと思った。
これって、観念機能を最先端とする人類のごく自然な統合様式であり、様々な外圧に人類の英知を結集して対応できる適応様式なのではないだろうか?
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