わたしも、露店の手伝いをしていくうちに、今まで風景の一部でしかなかった人々が、会話をする対象になったことに驚きつつ、同時に楽しいことだと認識しています。
今までの私(殆どの通りすがりの人)の場合だったら、道端で通りすがりの他人に声をかけたりはしなかった・・・いや、やろうとしても出来なかっただろう。それどころか、同時に電車に乗りあわせた人がいても話はしないし、カフェで隣に座った人にも話しかけたりはしない。
だが、露店を手伝ってからはどうか。接し方が、友達と他人とで、それほど差異がなくなってきたようにも思えます。
単純に誰とでも気楽に声をかけることが出来、簡単に共認を得ることが出来るからなのだと後で気付きました。
それは、誰にでも普遍的に通用する共認する内容があるからである。
身の回りの不全や、会社の待遇の問題、友人や恋人との人間関係、突き詰めれば全て社会問題に直結していきます。
その深層心理の構造を捉えることが出来れば、不全も突破できるし、たやすく共認も得ることが出来る。
道端の人は殆どの人が「良い人」であり、話をすれば「こんな世の中じゃあ駄目だ」と問題意識を持っている。
その認識収束を求めているがゆえに、現実とのギャップに耐えられない人が多いこともわかる。
無自覚ながらも、解脱仲間では満足できていないために認識仲間としての変革を態度で希望しようとしても仲間内の共認から言い出しづらかったり、しがらみのない他人となら純粋にマジ話ができることがわかったために、広く浅く「いろんな他人」へと関係が移り始めているようである。
そうして、共認を広めていけることで、結果安心するし、現実に向き合おうと課題を作成しようとする活力がわくのである。
しかし、しがらみのない関係のなかで、無意識に認識収束しても、それがなぜなのか。実感では理解できるものの、言葉としてはなかなか出てこない・・・それも現実。
>しかし、無意識の認識収束には大きな限界がある。無意識に留まる限り、いつまで経っても認識収束が(引いては社会収束が)顕在化してこない。認識収束を顕在化させるには、答えとなる言葉が必要である。答え(に近い言葉)を与えられて、初めて潜在思念の認識収束(全的な答え欠乏)が顕在化する。例えば、「認識仲間」という言葉が与えられて初めて、解脱仲間から認識仲間への転換が顕在化し、一気に進行してゆく。
しかし、最初の答え(に近い言葉)だけでは、未だ充分ではない。最終的には外向仲間=認識仲間を結集させる場が必要である。認識仲間の結集核とも拠点ともなるその場こそ、認識形成サイトに他ならない。その様な場が与えられて初めて、認識仲間が協働して答え(新しい認識)を紡ぎ出し織り上げてゆく事が可能になり、逆にその無限の可能性が認識仲間を引きつけ結集させる最大の引力となる。(28087)
だから、答となる言葉が必要なのであり、共認できる場を形成したいという相手の欲求に答えるためにも構造認識を勉強する必要があるのである。それがなければ、言葉として発することができずに実感に実感で答えることになってしまう。
それでは理解したことにはならないし、共認形成力という点で、充足度合いが全く違うものになってしまう。
相手の充足期待に応える場の形成。そこでの充足期待に応える認識の提供。それがあって初めて「共認形成の場」として成立する。
>即ち、人々の認識欠乏に応える認識競争の圧力こそ、まぎれもなく新たな同類闘争の圧力である。この認識闘争の圧力が最末端をも貫く圧力にまで成長すれば、それに応える『認識闘争の場』は人類の最先端機能となり、全てをその下に収束させた社会統合機能となる。(31767)
冒頭でも言ったように、誰にでも普遍的に通用する共認する内容があるのである。
だが、それがその場の相手とだけ繋がっていればよいと言うわけではない。共認は、万民に通じてこそ始めて普遍的なものとして成立するものであるため、ここだけの認識であったり、ここだけの共認であっては意味がない。
だから、社会統合として機能するためには、認識収束に答えるための闘争の場を提供しなければならない。
今までの私権を求める単純明快な闘争ではなく、みんなの意識、はたまたみんなの共認を得られる認識競争の基盤の作成。
基盤が共認されれば、自ずと共認を指標として意識統合のための共闘が発生してくることがわかる。
その基盤を、今の私権から移り変えてゆくか、私権とは別に同等の存在として設定することが必要となる。
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