>「与えてくれない」相手や集団に対する他者否定と自己正当化の塊なので、共認の敵対者とも破壊者ともなる危険性を秘めており、言わば共認機能が生み出した鬼っ子です。
>性闘争の本能回路は「自分以外は全て敵」とする回路なので、性闘争回路が他者否定と自己正当化を目的とする自我回路に直結し、両者は不可分に相乗収束してゆくことになります。(2239)
つい10年ほど前までは、上記のような現象として発現する自我は、他者であれ自己であれ、はっきりと認識できた記憶がある。
逆に最近は、序列原理から共認原理への移行、私権の衰弱→性の衰弱などにより、自我というものをとかく意識することが減ったなぁというのが実感だ。
しかし、果たして現代、自我は封印されている状態なのだろうか?
例えば、露店などで体験する、対立するわけではないが同化もできない様なケース、仲間第一だけど仲間に期待できないケース、違和感は感じるが確信が持てずその場の空気に迎合するケースなど、なんとなくではあるが自我の臭いを感じる場面に直面することがある。
これらの状態は、明確に他者否定として発現はしていないが、根深いところにマイナス捨象や勝手な不可能視があり、常に他者と自己は相容れない状態を前提とした思考スタンスにより、共認欠乏はあるのに、共認充足へ向かわず、無意識に自我回路を作動させているような不自然さを感じてしまう。
こうした状況が自我かどうなのかわからないが、私権の衰弱後、非常に見えづらい形での自我?が残存しているのだろうか?
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