>82611 出口を塞いでいるのは、頭の中に巣くう固定観念
>現実の肯定とはみんなへの同化
>家村和宏 ( 39 大阪 総務 ) 04/12/15 PM07
>>現実の否定は、頭の中でのみ(=観念としてのみ)可能なのであって、決して現実には有り得ない。実際、現実にメシを喰いながら現実を否定するというのは自己欺瞞であり、それでは下半身(存在)と上半身(観念)が断絶し分裂して終う。(20354 四方さん)
>間違いの根本は、社会を変える、という変革の意識が、「現実の否定」から始まっていたことである。現実から目を逸らして、自分の理想のみ語っても、それは観念の弄びでしかない。空想の世界のヒーローに過ぎない。突き詰めれば自我(自分にとって都合の良い世界)の正当化に他ならない。
「現実を否定することはできない」と、日本人は一語で現実についての確認と容認の両方をおこなう。
「それが現実である」ということと、「その現実がよい」ということは同じではない。
つまり、現実を確認することと容認することは、同じではない。にもかかわらず、我々は現実についての確認と容認の分離がはなはだ悪い。
日本人の議論は、現実に関する確認作業の域を出ないことが多く、その容認結果は現実肯定主義の根幹をなす。
理性判断がなければ理のある現実の否定はできず、現実肯定オンリーでは人類の進歩に貢献できない。
こうした意味の未分化が日本人の切なさの根源をなしている。82285,82240
日本人には、目の前にないことに関する陳述が難しい。それは、未来構文がないからである。82354
自分の基準に合っていれば肯定、合っていなければ否定である。だから、肯定も否定もできるはずである。
だが、自分の基準そのものがなくては、肯定とも否定とも答えられない。
NOといえる日本人を作るためには、自分の基準を持てる日本人を作らなくてはならない。
未来構文のないばらばらの単語では意味を成さない。こうした発言は哲学にはならずして、歌詠みになる。
歌詠みは、この世の「あるべき姿」を提示するのではなくて、その場の雰囲気をかもし出す。82144,81994
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