>期待するということは、可能性を感じ取ると言うことだと最近やっと分かってきた。
(80496『探索期待を顕在化させること(+付随する作業)』
>相手の期待に応えることが、自己の期待を充足してもらうことと重ね合わされ同一視されている。つまり、相手の期待に応え充足を与えることは相手に期待し充足を得ることと表裏一体である。
(実現論1_4_05)
相手に期待し充足することと、相手の期待に応えて充足することは表裏一体。「期待する=可能性を感じ取る」ということならば、「期待に応えたい、役に立ちたい=可能性を感じ取る、可能性収束」といえるのではないだろうか。
ここで、人々の意識潮流を遡ってみる。
>可能性探索は、今回も
イ:’70年頃にまず解脱収束に向かったが、旧観念に意識を侵され、かつ旧体制に出口を塞がれているので、解脱充足し切れないし、収束不全の答えにはならない。
ロ:そこで、’90年頃、旧観念・旧体制を捨象して、仲間内で(みんな共認)の充足基調に収束した。しかし、社会は旧観念・旧体制の共認で覆われているので、仲間内の充足基調だけでは、収束不全を解消できない(=答えにならない)。
ハ:こうして、’02年頃、私権活力の衰弱の果てに遂に私権観念(自分だけ。社会のことなど関係ないという観念)が瓦解し、頭の上の重石が取れたことによって、真っ直ぐに社会共認の可能性収束先を探索する探索基調に転換した。
(71820 『充足基調から探索基調への転換』)
解脱収束も仲間収束・外向収束(23326参照)も、単なる潜在思念の可能性収束にすぎないので、収束不全の答えにはならなかった。
そして、‘02年頃に顕在化した収束不全⇒探索基調。過去の解脱・仲間・外向収束と違う点は、「答えがないので」ということを自覚しているということ。そこで真剣に収束先=『答え』を探索し始めたが、人々は秩序収束と答え探索の綱引き状態に陥る。そして答えが見えないが故に、具体的な収束先が存在する秩序収束(既存の制度や観念に収束)に傾いてしまった。
誰もが『答え』を求め続けている。収束先を探索し続けている。
これは揺ぎ無い事実。
『答え』こそが、今最も人々が求めているものだということを、
人々は潜在的に感じ取っている、もちろん私自身も。
『答え』=まさに『新概念』そのもの。
新概念を使いこなせない限り、答えを見つけたとは言えない。
新概念を浸透させない限り、おそらく目先の秩序収束は続く。
常に私の意識の中にあり、特に若者に顕著な「役に立ちたい」という意識。ボランティアや福祉学科、カウンセラーが人気なのも、実は可能性収束=「類的需要に対する供給者になりたい」ということ。
期待する=可能性に収束する。
可能性に収束する=役に立ちたいという意識が生起。
役に立ちたい=類的需要に対する供給者になりたい。
「役に立ちたい」という気持ちがあって初めて当事者意識は生起する。そして、供給者になるための勉強に真剣に取り組むのだと思う。
今まで漠然と抱いていた「役に立ちたい」という意識の根源には「供給者になりたい」があることを認識。一層勉強意欲が湧いてきた!
|
|