>従来の経済学の基礎は、人は(無限に)物や金をほしがる、という原理に基づいてつくられている。この原理はすべての人にとって私利私欲の追求が最大の価値であるという、さらに深い原理から導き出されている。
(78729 野田さん、以下引用も同じ)
お金というのは貴重なモノであって容易に手に入らないものであるから、皆が汗水垂らして一生懸命に働いてきた、というのが私権時代。しかし'70年を境に貧困が消滅し、豊かさが実現され、生存圧力が低下した後、'85年から起こったバブル経済は、容易に金が手に入る幻想を生み出した。そして日本中の人々を狂喜乱舞させ、'91年に崩壊した。バブル経済は、金は貴重なモノであるハズが、実は数字の操作でどうにでもなるモノであり、その価値などコロコロ変わる、事を教えてくれた。
そして日本は今、700兆という莫大な借金を抱えているが、政治家や官僚達は相変わらず湯水のごとく税金を無駄使いしてるのに国家は平然と存続している。つまり社会の統合者である政府および中央官庁と国民の間の、あまりにも大きすぎる貨幣価値観の差が、活力を衰弱させてきたとも言えるだろう。もはや金(私権)が目的ではなり得なくなってしまった時代である。
>人々が私利私欲の追求を第一とし、(無限に)物や金をほしがるという自我経済学の原理は崩壊した。
>現代の日本を運営している政治家も官僚も学者もマスコミも、自我経済学の原理が崩壊したことを知らず、逆に規制緩和・民営化に示されるように、自我経済の手法をより強固に貫徹しようとしている。
規制緩和も民営化も自由競争を促進させようという考え方である。お上の束縛を少し緩めて、民間の金儲けの機会を増やしてやろう、という如何にも温情措置や民主主義を匂わせているが、己の馬鹿さ加減を露呈してるに過ぎない。例えば郵政民営化などは税金で抱えきれなくなった公務員を切り捨てただけであり、無策に等しい。昨今の政策を見ると、ほとんどがこの手法である。財政を圧迫する余分な人件費を少しでも削減させ、己の身の安泰を図る卑しい思想である。そして批判をかわす為に「民営化」というもっともらしい政策名で誤魔化してるだけである。
>人々は自我の充足から、共認の充足(課ほう題・役割・規範・評価を共に認め合う充足)に意識を転換している。従って、共認充足を人間の行動基準において経済理論を組み立てる、共認経済学が必要となる。
政府は経済の立て直しというと、すぐに消費の活性化というが、そんな時代はとっくに終わっている。金の循環を第一義に考えてるから何も見えてこない。金権政治に明け暮れてきた貧しくボケた頭では、新しい価値を見出せないのは至極当然であろう。
>共認経済学においては、お金や物は二義的存在であり、お金はあくまでも人間の活動を円滑に進めるための潤滑油の役割でしかなくなる。従って経済学の役割も、潤滑油がうまく行き渡るように制御することが目的であり、お金を増やすことやGDPの拡大は目標でも目的でもなくなる。
自我経済学→共認経済学、これこそが本当の「構造改革」だろう。戦後日本の経済の肥大化に伴い、金が人を操るように至った。人は金の虜に成り果てた。旧観念が人々の精神を蝕んでいる時代が長く続いた。この状態を突破するには、活力の源泉および経済の土台が「共認充足」である社会に変えるしかない。そうであるなら共認経済学は人類の原初の姿に戻ること、を意味しているかもしれない。 |
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