>なんで屋で教えてくれるのは、現実に役に立つ認識!
だったら、塾や習い事に通わせるよりなんで屋に通わせる方がいい。
こういった期待がより顕在化してきたら、「なんでや教室」といったものが出来ていくのでは?って思います。<(78363三輪さん)
塾に携わる者として、「塾より」と言われると正直グッと詰まります(苦笑)。
が、最近露店で行われている白版を使った『デモ』を見ていると、こりゃ授業やな、と感じているこの頃。正直、塾の今後の突破口として「なんでや教室」(露天教室)もありかと思っているのですが…
でも、現実的にありうるとすれば、個別指導(悩み相談も含めて)やグループ学習(学年を超えたたて関係も含めて)の形態進化かもしれませんね。是非やって、みたいですね…
「塾」に限らず、需要が可能性収束するのは「人と認識が一体となった場」。子どもたちの人収束(共認収束)を大きく捉えると、「仲間充足」需要と「仲間不全」需要があるように思います。前者も後者も仲間欠乏を喚起しますが、どちらかといえば後者が個別需要を生み出しているでしょう。
仲間関係において、「仲間はずれにされない」という否定形の仲間圧力が働いているので、既存集団からの脱出欠乏上昇から「仲間不全」に陥っている場合もあり、必ずしも彼らが次代の弱者であるとは限らない。また、前者の流れもこれまでの「仲間圧力」に代わる共通の充足課題「みんな課題」を欠乏し始めているように感じます。だから、個別需要もみんな収束へと動き始める。
現在、塾に来ている生徒の共通課題が、「学校のテスト」「入試」というハードルであり、あるいは学習カリキュラムに対する「勉強」そのものとなっているようです。「勉強はみんなでやるというように…
その課題を通して、「教えあい、評価しあう」という共認関係が少しずつでき始めているようです。つまり、彼ら自身が期待し応合する当事者となって応合回路が開き始めている。
その意味で、「なんでや」さんを教育(育成)の場とした場合に、仲間と応合回路を開いて仲間集団を構築する、仲間関係の構築が現在の「なんでや」では少し足りないでしょうか。
ただ、問題は三輪さんも指摘される「現実の役に立つ認識」ということでしょうか。現在の塾に来ている彼らの現実とは既存の学校のことであり、既存の入試システムのこと。そのことは、彼らにとって確かな現実であり、私はそれを現実捨象してはいけないと思っていますし、多くの子どもたちの意識もまたそれが現実課題なのです。
じゃ、「次代を読んで」、果たして現実に役に立つ認識か、といったときに既存カリキュラムの多くは旧社会の産物であり、捨てるものが多くある。と同時に人間の知として学ぶべき多くのこともある。
じゃ、何を捨てて何を学ばせるかといった視点に立ったときに、それを規定するもの。それは現実の生産社会と次代の要請だと思います。だからこそ、教育の場が家庭や現実から隔離された学校や塾では課題(カリキュラム)を決めようにも決められない。教育の場は生産の(換言すれば生活の)場になければならない。特に発達段階にある子どもたちの本能回路から共認回路・観念回路を強く育成していくためには、自然外圧の強くかかる場が有効ではないかと思います。
その観点では「農という生産の場(生活の場)」にこそ、次代の塾の基盤が求められるだろうと考えています。もちろん、そこに「なんでや教室」が付設されれば鬼に金棒と思いますよ。 |
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