人類の限界寿命を、かつてベストセラーになった「ゾウの時間 ネズミの時間」の法則で計算すると26年にしかならないらしい。例外的な人類の長寿命は何を意味しているのか。
また、老化という生体現象は不利な形質に思えるのに、なぜ淘汰されてこなかったのだろうか。そもそも、繁殖期を過ぎて生き長らえることに進化上の意味があるのか。
多くの生物は老化していく以前に生殖年齢を過ぎたら死ぬが、何故、サル・人類だけは死なないのか。
ところで、人類の長寿命化については、生存や生殖に関する能力低下というマイナスの側面と、観念や経験の蓄積による観念能力の上昇というプラスの側面がある。
ここで、共認や観念を使って社会を統合することでしか生延びられなかったサル・人類は、他の生物だったら生殖年齢を過ぎたら訪れるはずだった死を、老化という形で引き伸ばしてきたのではないだろうか、という仮説を立てたい。長寿命化が老化という生体現象を付随させているということではないか。
参考書に拠れば、老化は生体の積極的過程である、つまりプログラムされているのだという仮説と、そもそも生体は「老化防止メカニズム」をもっているが、そのメカニズムが加齢とともに擦り切れていく、つまり老化をダメージの帰結として捉える二つの説があるらしい。
長寿命化による人類の共認・観念進化という仮説に立てば、(やや拙速ながら)老化プログラム説より、老化障害説の方が妥当であると思われる。しかし、これは正常であったものが障害を抱えたというより、共認動物以前には有り得なかった、生殖年齢を超える遺伝的形質「老化防止メカニズム」を獲得するための可能性収束の結果だったのではないだろうか。
サル・人類にも有性生物共通の絶対的ルールとしての死は訪れるが、寿命を引き伸ばすことによって共認・観念能力を(いわば)本能化してきたと言えるのかもしれない。すなわち、性を持つ生物は死ぬ、そして観念(共認)能力を持つ生物は老化する。
生物が繁殖期を過ぎて生き長らえることによる進化上の意味とは、あくまで生体としての意味であり、上記仮説が事実なら人類は既に観念進化の道を歩んでいると言える。
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