無表情な若者に関する、一連の投稿の論点を大まかに整理すると、
@親子間の親和欠損→観念(言葉)による囲い込み→無表情
Aパラダイム転換期の社会不全→社会探索(様子見)→無表情、
ですが,これ以外に、新しい視点がありえないか、考えてみました。
ちょっと前に、ある場所で出張露店をやったのですが、20代前半の表情のない若者が結構多く、違和感を覚えました。
僕が出会った、20代前半の若者たちを育てたお母さんは1980年代に子育てを開始しているはずです。
(1979年イギリスでマーガレット・サッチャーが首相に就任、
1980年日本初の女性大使、1985年男女雇用機会均等法の成立、
1986年当時の社会党党首に土井たか子氏就任)当時の家庭での育児が完全だったとはいえないにせよ、今ほど児童虐待が叫ばれていたわけじゃなく、子供に笑いかけない、スキンシップしない、ようなお母さんが圧倒的大多数だった、とは思えない。
それならば、新たな切り口が必要。
それは、「いじめ圧力の絶対化」という視点、ではないだろうか?
子供が母子関係から外に出て初めて受ける外圧に仲間圧力がある。
「一年生になったーら♪一年生になったら♪友達100人できるかな」の唄にあるような、果たして仲間との繋がりを上手に作れるのだろうか?
仲間に受け入れられるのだろうか?という期待と不安が、絶対的にある。
それまで、母親からの親和欠損、があったとしても、仲間との間で充足体験を積むことができれば、新たな仲間との安心、充足基盤をもとにして、絶対的な不安は徐々に封印されていくのではないか。
小・中学時代に仲間と笑いあう体験があれば、笑顔を作る練習はいくらでもでき、そういった仲間との充足体験があれば、20代になっても無表情、にはなりにくい。
ところが、仲間からいじめ、無視にあい、安心して心を開いて、笑いあうなど、共感しあう機会を失えば、感情をどう表現していいのかだんだん分からなくなる。自分から仲間に笑いかける、充足を追及しようと働きかける、ということも、刻印された恐怖感が邪魔をして、できなくなる。そもそも感情は、人に共感されなければ何の意味もないんだから共感しあえる基盤を仲間空間に見出せなければ、感情を露わにするのをあきらめ、次第に仲間への期待を封鎖する、という思考回路が定着してしまうのではなかろうか?
そうなると、実感を持って人に何かを伝えるということができなくなり、いつのまにか自分にも仲間にも、期待することをあきらめ、いつもずっと不安で、どこにも居場所のない感覚に囚われてしまうのではなかろうか?
不安感は充足体験を積むことでしか解消されないのに、場がないため、いつのまにか自分だけの観念に囚われるようになり、一人でぼんやりするような時間が増え、表情によって感情を表現する練習ができなくなり、その必要性さえ感じなくなるのではなかろうか?
|
|