>みんなが充足しているから、自分も充足している場。・・・こう言うのを一度経験してしまうと、共認充足度に一切妥協できなくなって、更に更にとより高い共認充足を追い求めてしまいます。<(60636:岡田理恵さん)
実感のこもった言葉だな〜とついつい感心してしまいました。それと同時に、こういう状態は人間はもちろん、生物すべてにあてはまるのではないかという気がしてきました。
私たちは往々にして、まず欠乏感があって、それを埋め合わせようとエネルギーをかき立てて努力をし、その結果として充足を得るというイメージを思い浮かべがちです。しかし、よくよく考えてみると、欠乏(特に答え欠乏ような新しい欠乏)はどこから生じるのかという問いには、上記のイメージは何の回答も与えてくれません。
事実は逆で、まず充足があって、その充足感を知ったが故に、それを追い求めるエネルギーとなる必要意識・課題意識≒欠乏が生まれるという構造になっているはずです。生物一般の本能進化も、おそらく、新しい欠乏が先に芽生えるのではなく、例えば新しい餌場やニッチを体験する中から、それまでは知らなかった充足(または可能性)が与えられ、その充足を手に入れるために新しい機能を獲得して適応していったというのが正解だと思います。
ずいぶん前になりますが、四方さんが『必要意識⇒課題意識には、不全発と可能性発の二通りある! 』(19576)という投稿をされていますが、そこで語られている内容が、交流会という実践活動を通して徐々に実現されていく過程で、不全発と可能性発の優劣も鮮明になりつつあるという思いが、最近ますます強くなっています。
『答え』となる認識を共認することで得られた充足が、ホンモノの『答え』を際限なく求める欠乏を生み出すという流れは、人類の認識進化という観点からも、ひとりひとりの能力上昇という観点からも、決して忘れてはならない重要な認識のひとつだと、最近あらためて感じています。
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