☆社会関心は、観念を必要とする。
☆しかし、これまで大衆は、専ら流行やスター作りetc、(自ら中身を創り出せずに)評価主権のみを行使してきた。
☆仲間や集団や社会において、最も重要なのは評価共認。大衆は、中身は創れずとも、評価権は行使し続けてきた。
●規範と観念の衰弱に応じて、スターへの思い入れも衰弱し、スターが小粒化・消耗品化。(俳優→歌手は、自演=参加欠乏の昂まりか?)
●’70年以降、映画も歌も、スポーツも、お笑いも、全てがその吸引力を緩やかに衰弱させ続けてきた。今や時間潰しの対象。
●同時に、人々は中身(豊かさ追求という目的)を失うにつれて、それを補うかの様に技能的な中身作り(資格、英会話、料理)及びそのカリスマ作りに励んできた。
●そして、’00年、ほぼ完全に中身(私権)を失いor混濁させた大衆は、技能的な中身作りを超えて、遂に社会関心的な中身作りへと向かい始めた。
注:小泉フィーバー(特に熱烈ファン)とは、従来からの人気者作り=評価共認の対象の、この様な大転換である。
注:小泉フィーバーは、首相という最高権力をもって悪代官を懲らしめてくれるという期待。大衆の実現可能性の認知基準はスターより高い位置にある。これは、大衆が相変わらず評価するだけの主体(≒純粋な付和雷同)に留まっているとも云え、観念化活動への道は遠い。
☆しかし、社会的な中身作りが、仲間作りに続いて社会変革⇒社会関心の中身作りへ向かう時、観念(化)過程に入ってゆくのは必然。
☆その時に、支配観念からの脱却⇒その為の啓蒙・勧誘活動(実現論に共鳴する=観念を共有する仲間作り)が、最も重要な活動となる。
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