法学者の仕事の中心は主要に法の解釈です。とりわけその法が制定された趣旨・目的から類推しての条文の解釈が中心で、その解釈内容が裁判の際の判決の根拠となります。そしてそれは最終的には各法律の根拠となっている基本法(憲法など)更にはその憲法の背景にある、精神つまりは法哲学(法思想)の研究に行き着くようです。つまりこの法思想こそが彼らの解釈、或いは立法そのものの正当性を与える根拠となる、ということのようです。(参考リンク)つまり論理性、一貫性のための学、というのが建前です。
>平成15年1月現在日本で施行されている法律は1827あるそうである。(59988)
ところがこれらの根拠となっている基本法からして、相互に矛盾だらけです。例えば法律の基本精神の一つは「法の下の平等」です。例えば最大の基本法である憲法においては国民の権利と義務が規定されており、それらは当然「平等」に適用されなければならないはずです。ところが国民の三大義務として定められている「労働」「教育」「納税」にしても、例えば労働していない層は有閑層を始めとして山ほどいます。或いは義務教育にしても、親は子供に対して義務教育を受けさせる義務があり違反すれば罰せられますが、子供は学校に嫌がっていかなくても罰せられる事はありません。もちろん課税も平等ではありません。つまり全く義務は「平等」に適用されてはいません。それだけではありません。最近問題になっている心神喪失者(例えば泥酔者や覚醒剤中毒者)や少年については刑罰の対象外つまり一般法の対象外となっています。つまりまともな判断が出来ない人間は法律の対象外という訳です。ところがもう一方の「権利」に関しては子供であれ、心神喪失者であれ基本的に適用されます。いわゆる権利だけあって義務が無い状態です。これは普通の感覚を持つ人間からすれば、文字通り「法の下の不平等」としか言い様の無い状態です。つまり各法律は(従って法学者の解釈も)根本的かつ、あらゆる所で矛盾だらけで、どこに一貫性や整合性があるといえるのか疑いたくなります。
法思想という「聖典」の解釈によって人々の生活を決定的かつ一方的に規定する。その意味で彼らは正しく現代の神官と同じ位置にいます。(59273)かつその聖典の根本が矛盾だらけだとすれば、社会を混迷させ閉塞に導くのは必定。しかも社会統合の実務者=政治家や官僚は立法が最大の仕事であり、それらは彼ら法学者の法解釈に導かれているとすれば、正しく彼らは世論を形成するマスコミと並ぶ、現代の最大の影の権力といって間違いないと思います。
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