すでにたくさんの「マナー」に関する投稿がありますが、色んな無意味な「マナー」が最近多くなっているということはみんなが感じていることのようですよね。
そのような「マナー」とはどこから生まれてきたのか。「○○権」を主張すれば、それを保護するために法制度ができたり、法制度までにならないものは保護するために「マナー」として共認されてきました。
ではその保護されなければならない「権利」とはいったいどのようなものなのでしょうか。
>「権利」(人権)という観念は男女同権にせよ、嫌煙権にせよ、日照権等にせよ、全て己の利害を、相手や社会に対して要求する際の根拠概念として用いられています。
>そしてその「権利」の根拠となっているのが「天賦人権説」。つまり人権は生まれながらに与えられているもの、天が与えたものという訳です。要するに自然科学上や社会科学上の[事実に基ずく根拠]は一切ありません。
>「権利」とは、集団捨象の自我→要求をもっともらしく見せかける為の架空観念に過ぎない。
(58457)
このように[事実に基づく根拠]の一切ない、架空の観念によってつくられた「権利」を保護するためのものが「マナー」だったのだと気付きました。
だからみんな無意味な「マナー」というものに気付いたり、違和感を感じている人が多くなっているのは、潜在的にその保護対象である「権利」というものに矛盾を感じてきているという証ではないでしょうか。
>殆どの人の実感からずれていたとしても、権利という旧観念を社会統合上の観念として共認している限り、反論も出来ないので次々と法制化され強制されていく。
(58457)
しかし私権の終焉によって、「権利」というものの矛盾を潜在思念で感じることができるようになってきた今はまさに場の転換期である。後は今まであるような投稿の内容をみんなで共認することで、みんなの社会統合上の観念として共認すべきもの、共認できるものは、事実根拠のない「権利」ではなく事実認識である「期待応望」であるという意識の変革によって、意識の集合体である社会も大きく変わっていくと思います。 |
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