> 最近最も喧しい「マナー」論議と言えば、「禁煙」「セクハラ」でしょう。この二つの出所をよく考えてみると、「禁煙」は“嫌煙:権”に端を発しているわけですし、「セクハラ」も“女性の:権利”に端を発しています。いずれも“〜権=〜の権利”ということで、旧観念の権化たる近代西洋思想の権利意識がその根源にあるわけです<
(58314佐藤さん)
正に、旧観念(私権)と新観念(事実共認)との新旧パラダイムの共認域の縄張り闘争の具体的1事例がマナー論議ではないでしょうか?
共認無きルール(=マナー)VS事実共認をベ−スとした規範形成との闘いとも言えると思います。
特に、「セクハラ」に関しては、
女の性の自由を抑圧する規範(旧私権規範)をことごとく解体してしまったため、その規範のアンチとしてこそ力を持った性権力が衰退の一途を辿る中、その生き残りを賭けて、新たに作り上げた(措定した)敵(抑圧物)が「セクハラ」と言えるのではないでしょうか。
そして、それを法、制度という形にまでしてしまった
一方で、男女の期待応望関係に気付いている女性からは、「セクハラ」という言葉が出るのをほとんど聞いたことがありません。
それにしても、
自身の生き残りのために有りもしない敵を祭り上げるとは、一時の延命のためにカンフル剤を打っているようなもので、先は見えています。
パラダイム転換の必要性に気付いている我々としては、そのトバッチリを受ける前に、早々に、共認域を拡大し(縄張り闘争に勝ち)、旧観念派を包囲して、社会規範、制度までつくりかえてしまうことを目指すべきではないでしょうか。
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