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今西錦司の自然観に対する共感 |
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( 37 愛知 建築士 ) |
01/07/04 AM00 【】 |
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こんにちは、芦原さん。
> これをみると、「一個体が突然変異を起こし、その遺伝子が小集団の中で頻度を上げていった。それにより新しい形質が種に定着し、進化する」とする定説での説明は困難で、HLAの研究からは、交配可能なかなり多数の祖先が、一度にこの地球上に姿を現したということになります。
まさしく、今西進化論を彷彿とさせますね。
今西進化論については、「進化は変わるべくして変わる」という結論が先行してしまい正しく伝わっていない観がありますが、近代西洋科学の限界が言われる現在、今西錦司の自然観・進化論は大変興味を持っています。
その自然観は、いわゆる近代科学の二元論的自然観と異なり、環境と生物といった二つのものが存在しているのと捉えるのではなく、生物あっての環境であり、環境あっての生物でない、といった独自な生物を主体とした一元論的自然観といえます。
今西錦司の言葉を借りれば、環境とは何よりも「生物が生活する生活の場」であり、「生物そのもの継続」であり、「生物的な延長をその内容としていかなければならない」もの。実際の生物と環境の関係は、「生物とその生活の場としての環境を一つにしたもの」となります。
西洋の近代科学が、主体と客体が相互に対置される二元論的な(機械論的な)自然観であるのに対して、環境をあくまでも生物主体の延長とした、今西錦司の一元論的自然観は、生物(主体)と環境(客体)が、相互融合的に捉えられているものである思います。この自然観は、素朴であり、我々の日常的な感覚に近いものであるのではないでしょうか。
今西錦司の進化論は、ダーウィンの進化論に対する曲解した解釈など、いろいろと批判されるところもありますが、種を主体とする進化を考える上で、「すみ分け原理」を土台にした「種社会論理」など、参考になるのではないかと考えています。
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