今回の池田小の事件に関しては、例えば社会規範とか社会道徳などの、その前段階としての人として持つ「罪意識」を考える必要があると思います。本来、人としてしてやってはいけないことをわきまえる、当たり前のことですが、これを犯す者には刑罰を加える、これが社会ルールです。するとこの「罪意識」なくして犯罪を犯した者はどうするのか、責任を問えるのか、という考えの下に救済措置がとられるケース(例えば精神疾患者や未成年者など)がありますが、今度はこれを悪用する者が現れる。よってまた重罰化の論議が沸き起こる、という具合に際限なく罰則により世の中はガンジがらめにされてゆきます。
もちろん少しでも刑を重くすることで、被害者やその家族に対する慰謝の念を強くし、更なる犯罪の予防という点では一定の効果はあると思われるが、そもそもの罪の意識(=規範意識)の欠如はどうして起こったのかその根本問題が問われているのではないでしょうか。個人の問題なのか、家庭の問題なのか、学校の問題なのか。職場の問題なのか、社会全体の問題なのか。もちろん原因は単純ではなく、複雑に絡み合っているとは思います。
msg5321 新大阪駅氏より
>必要な議論は、犯罪に対しての処罰のありようではなく、もっと根深い社会 全体での人のこころのありようや規範意識についてではないだろうか。
社会全体を考えるならば、その現象事実として例えば、若者の電車内でのマナー、タバコのポイ捨てのマナーをはじめ、昨今報道されている医者、政治家、役人、大学教授、マスコミらの目に余る規範意識の低劣化をどう捉えればよいのでしょうか。若者は大人たちを軽蔑もするが悪いところもマネをするものでしょう。学校教育で教えられた様々な美徳も、新聞やテレビで報じられる大人達の醜態を見るにつれ、それらも空虚なモノと成り果ててゆき、やがて罪意識も急速に薄れてゆくような気がします。まず我々自身が若者の範を垂れるべく大人の行動を示さねばならないのでしょうか。
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