最近学生と話している中で、いわゆる「反抗期」が復活し始めていることに気が付いた。いわゆる反抗期は例えば1960年代の「理由無き反抗」に象徴されるように、急速な都市化に伴う農村育ちの父親と都会育ちの若者との間で繰り広げられた世代間の価値対立を土台としていた。ところが都市化がトコトン進展した1980年ごろから徐々に反抗期は衰弱し始め(つまり親子間の価値観にたいした差が無くなり)特につい最近までの約10年間は親の子供に対するに対する接し方が対立を避けた迎合的なものになった事ともあいまって、親子間はいわゆる「蜜月状態」にあった。その意味でごく最近のこの変化は、ミクロな現象ながらも重要な転換である、と思う。
「反抗の復活」の直接の契機は親の押し付ける「受験勉強」に対する反発であるらしい。私権が衰弱した以上子供達は肌で、いい大学→いい学校という人生コースが最早輝きを持たないことをよく知っている。つまり親の言うことにリアリティを感じない。加えて彼らの中では仲間収束が強まっている(その典型事例は49325神家氏)。仲間課題(例えばクラブや仲間づきあい)と勉強課題は明らかに対立する。だから彼らは親が実は仲間空間に敵対する存在であることを意識する。このような親子間の意識の違いが不協和音を奏で始めたようである。私権と自分に収束していた親世代とそれから離脱しようとする若者達の間の一種の世代間闘争の復活である。
そういう目で見てみると、交流会では世代間の意識のギャップが目立つ。特にギャップが大きいのが、40・50代でかつ自分の成功体験や「このように自分は生きてきた」と、自分の生き様を自慢げに語る人たちである。自慢話に加えて、己のその人生訓なるものを若者達に勧めようものなら、多くの若い人たちはいっせいに困惑した表情を見せる。つまり中年世代の生き方やそれを支えてきた価値観が、若者達には殆どピンと来ないし、それどころか、それが否定的なものに移り始めているのだ。
考えてみれば彼ら中年世代が青年期を過ごしてきた1970年以降は、貧困という「みんな不全」が消滅していき、それに伴って人々の意識から「社会課題=みんな課題」が捨象され、ミーイズム(自分主義)がはびこっていった時代であった。そんな中で彼らは「自己実現」や「自己啓発」あるいは「輝いている自分」などの剥き出しの自分観念を人生の道標に私権課題や自分課題(遊びや趣味)や或いはマイホームに収束していった。そして過剰消費の風潮をつくり(≒環境問題をつくり)、バブルを生み(その責任もとらず)、閉塞した核家族を作り出したのは正しくこの世代そのものなのである。つまり時代閉塞を直接生み出した張本人そのものともいえる。
もはや若者達は私権に収束できないことも、家庭が閉塞していることも、肉体的によく知っている。だから中年世代達の成功談やそれを支える価値観念群は彼らにとっては全く輝きを持たない。それどころか若い世代にとって、それは反面教師像である。
加えて中年世代の自分観念、私権観念に基づく言辞は、急速に高まる適応不全=みんな不全に対する答えにはならない。それどころかそれは閉塞を導き、仲間収束とみんな期待に蓋をするその元凶そのものであることを、若者達は明確に察知し始めているようにさえ思う。最早過去の成功体験や価値にしがみつけばしがみつくほど時代からずれていくばかりであることを、上の世代は自戒すべきであろう、と思う。 |
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